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評者◆小嵐九八郎
死を扱うということ――現代短歌研究会編『〈殺し〉の短歌史』(水声社、本体二八〇〇円)
No.2978 ・ 2010年08月14日
宣伝をして、ごめんなさい。先先月、『明日も迷鳥』という歌集を短歌研究社から自腹を切って出した。自分で値段をつけることをしたわけだけど、税込み1200円。読み返すと、誤植ばかりでなく、その無内容の情けなさにうんざりする。なんで短歌にこだわるかというと、稼ぎにならず儲けにならずの心情と泣きとかをリズムに乗せて、おのれに酔いしれたいのだと考える。なに、ブンガクの〝主流〟の小説が利潤を生むなんつうのはこの二百年ぐらいのできごとで、文学自身の始原は、悲しさ、嬉しさを言語に託して自分で満たされ、ついつい他者へも伝えたくなるパワーにあるわけで、〝主流〟すら百年先は商品として存在できるかどうかなんて分からない。
それで、この十年ぐらい思っているのだけれど、歌人の集会でも縦でなく横でのつながりのそれは、けっこう厳しい水準を持ってきているということだ――もっとも、そういう会合には一年に二回ぐらいしか出ないけど。小説のその手の集まりは、慣れ合い、勲章をつけた大作家と売れて鼻息の荒い作家の教訓話と自慢話が主で、小説の危機と共に小中学校の学芸会みたいになってきたと感じるのは、万年低空飛行の俺のひがみであろう。 さて、こういう小説界と短歌界の水準を解らせる切り札的な一冊が、短歌側から出た。『〈殺し〉の短歌史』(現代短歌研究会編、水声社刊、本体2800円)である。 大学院まで進んで「ほオ立派」、という人が半数以上の執筆陣なのだが、のっけの「総論」、谷岡亜紀さんの文章からして怖いほどに、インド・ガンジス河での巡礼者の死を待ち、そして死に、死体の焼かれる実体感覚にこだわり、つまり、他人の死は死体という現物を通して解ることから始まっている。ベトナム戦争、アフガン戦争を〝見た〟者の眼差し、言語美学におけるイマジネーションの暴走のたやすさは寺山修司の〝殺し〟の好い加減さへ行き、どきり。もしかしたら、〝殺し〟の短歌は刺身のつま、それよりも文学における死の扱いの遊戯性を笑っているのかも。 (作家・歌人) |
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