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評者◆杉本真維子
モノクロームの鎮圧
No.2978 ・ 2010年08月14日




 テレビで暴力シーンが映されると、そそくさと自室にもどって、映画が終わるまでリビングへは近寄らない。うっかり見てしまったときは、反射的に自分が撃たれたかのような錯覚に陥ってもだえる。過剰だと自覚しているし、演技なんだからそこまで反応しないでよ、と家族はあきれるが、こちらは単純に、怖くて、痛くて、見ていられないのである。
 そんなわたしが、自らすすんで、北野武監督の新作映画『アウトレイジ』を観にいった。暴力団同士の抗争を描いた「やくざ映画」なので、苦手なシーンが満載であることはわかっていたが、「全員悪人」というコピーに心が動いてしまった。やくざ=悪という一般通念に対し、わざわざ「全員」と強調している点に微かなイロニーを感じ、善悪という概念の反転をも超えた、未知の何かのあらわれを、そこに期待したのだと思う。
 その期待は、裏切られなかったので、映画とは観に行くものではなく、映画から呼ばれるものだという感慨をふかめた。でもじつは暴力シーンのなかでも、とりわけ残酷な部分は、ほとんど目をつぶってしまって見ていない。こんな有様では『アウトレイジ』を見たことにならないのではないか、と直後は悔やんでいた。ところが、ぜんぶ目を開けていたという友人によれば、残酷なシーンを避けても、あの映画は大丈夫だという。言われてみれば、たしかに、と納得し、何がどう大丈夫なのかを、わたしなりに、言葉にしてみることにした。
 まず、なぜ、残酷なシーンを、ピンポイントで確実に避けることができたかといえば、俳優たちの科白が、次に起こるであろう場面を、換喩的に予告していたからである。たとえば、嘘をついた人間に「おまえの舌は一枚か」と何度も詰問する――その言葉が、直後に、舌が一枚ではなくなることをほのめかす、というふうに、わたしは映像よりも、それに先行する言葉のほうによって、すでに充分に震えていた。つまり、言葉からふくらむ想像の恐怖が、映像の恐怖を凌駕していた、と自分の想像力によってそう判断し、見なかったことによる物足りなさを少しも感じていないところが、「大丈夫」な理由なのではないか。
 今回は、映像で語らせる手法とは異なり、科白が多いことが特徴のひとつだと監督自らが語っている。しかし科白は、圧倒的に怒声で占められ、激しい言い争いになるほど言葉の意味は砕かれ、単なる音に還元されて、ひらひらと舞って消えていく。熾烈な争いへと発展するきっかけの「くだらなさ」も、やくざという括りを超え、人間そのものの争いに通底するものとなっている。そして、何より、なぜそこまで争うのか、という理由が見えない、というより、ない、と言いたくなるような「非-意味」の領域までひらかれているところが秀逸であった。そこは、透明感として孤高に残され、人間たちのなかで中心に据えられていたものは、お金でも、権力でも、愛でもなければ、命ですらもない。
 その、命ですらもない、という恐ろしさに、息苦しくなりながらも身を沈めていくと、極限まで削ぎ落とされた、もっとも純的な何かに触れてしまう。男たちの黒い車、黒い服、キャバレーらしき店内や暴力団事務所も、場末の灰色がかった空気に覆われていて、全体的に黒が際立つ。その画面のなかに、白くのびる細い塔のようなものやまっすぐな白線が、象徴的に入り込んでくる。モノクロームに二分された「世界」が、人間の闘争という泥くさく、血なまぐさく、愚かなものを、冷酷に、獰猛に、いわば暴力的に、鎮圧している。そこにあるのは暴力だけ。すみずみまで徹底的に、暴力だけであった。
(詩人)







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