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評者◆安藤礼二
「性」そのものとなった世界を描き尽くす――「私」という主語以前の世界にたどり着こうとしている「昭和以降に恋愛はない」(大江麻衣、『新潮』)
No.2978 ・ 2010年08月14日




 高橋源一郎が、ある決断とともに、「いまこの詩集を読み返すと、みんなが『書きたい詩』を書いている中で、大江さんは『書かれるべき詩』を書いたという思いが強い」と記し、その全貌が紹介された大江麻衣の処女詩集「昭和以降に恋愛はない」(新潮)は、確かに現在切実に求められている最も「書かれるべき」言語表現の一つであると思う。もし、「詩」なるジャンルが他の言語表現から自立して成り立っていると信じている書き手がいまだに存在しているとしたなら、そのようなジャンルも、そのような書き手も、一度滅びてしまった方がよい。「昭和以降に恋愛はない」が発表された同じ『新潮』の誌面には、小説という形式をもった古川日出男の「冬」と、戯曲という形式をもった野田秀樹の「ザ・キャラクター」も掲載されている。ここに、『群像』に注目すべき連載を続けている穂村弘の「現代短歌ノート」と、同誌の七月号の特集「ドストエフスキー」における「やさしい女」の新訳と山城むつみの評論「カラマーゾフのこどもたち」を付け加えてみればよい。
 詩、小説、戯曲、短歌、翻訳、評論。おそらく日本語という、語ることと書くことの間に大きな隔たりをもった表現言語が可能にしたほとんどすべてのジャンルの作品の「現在」の姿を一望することができる。いずれの作品でも、言葉の音と意味の解離が問題とされていることは象徴的である。それらの作品では、「ゼロ」の地点(古川日出男)からの言葉と記憶の発生があらためて問い直されている。そのゼロの場所とは、性の起源であるとともに歴史の起源でもある。山城むつみは「カラマーゾフのこどもたち」で、そのような世界を、善悪の彼岸に再発見されるべき「邂逅」によって「復活」が可能となる、固有名以前の不定冠詞をつけられた「こどもたち」の世界、特異性をもちながらも多そのものの運動性を保った、無垢であるとともに残酷な群れがうごめきまわる世界として定位している。自身のドストエフスキー論の完結篇でもある論考の最後で、山城はこう述べている――。
 「こどもには『別の世界』は問題にならない。『この世界』だけが問題だ。こどもが生きている、どんな目的もどんな終わりもない世界が『この世界』なのだ。残忍でありうる力によって善良な彼らは、その善良でありうる力によって残忍さにまみれながらもこのエンドなき世界を、疲れを知らずに動きまわっている」と。大江麻衣も「昭和以降に恋愛はない」において、評論的なアプローチに鋭い批判を突きつけ――「文学のほうでも、強靭な想像力と、評論仕掛けの巧みな技術で掛け算している方々が、沢山いる。村上春樹と三島由紀夫、夢野久作と舞城王太郎…教えてくださいよ、数十年を飛び越えたふたりの関係を!」――、引用することも引用されることも拒否しながら、「私」という主語以前の世界にたどり着こうとしている。「主語がなければ人は全て性に直結することを思います」。そのとき、「おんな」の身体は、「海鼠」のような未知なるものへと変貌を遂げてしまう。
 「海鼠はほんとうのほんとうに、最初の生き物なのかもしれませんね」。さらには、「おんなも、たどっていけば海鼠から生まれた。人間が粘土にもどる時、人間は砂には還れても海鼠にはもどれない。海鼠はただ海鼠としてじっとしていて、振られることもないから硬くなることもない。ただ何にもならずにずっと」……と。「こどもたち」が跳梁する、「性」そのものとなった世界。それを詩や小説や戯曲として、あるいは短歌や翻訳や評論として描き尽くすことこそ、文学という営みがもつ本質であろう。
 その文学の本質を、ただ言葉のみを使って顕在化させることに成功したのが、古井由吉の「明後日になれば」(群像)である。この作品は連作のうちで可能となった一篇であり、物語の筋も、登場人物の固有名も与えられていない。だが、他のどの作品にもまして表現の強度をもったものである。
 夢とうつつ、生と死の間に区別をつけることができなくなってしまったような老いたる者の前に、「草花にも通じる匂い」をもった子供が現れる。その子供に導かれるように、ある夜、老いたる者は自身の小便に「昔の女の匂い」をかぐ。同じ境遇の「老年の遠縁の者」は、古代ギリシアの哲学者の言葉を借りて、こう諭す(古代ギリシアと現代の交錯という主題は野田秀樹の「ザ・キャラクター」とも交響する)。人間の身体は、地水火風、土と水と火と風という元素が結びついた以外の何物でもなく、果てには、その四元素とともに分かれて散って、自然に還る。しかし……「今の俺の思うところでは、いまにも散りなんとする地水火風をわずかにまだひとつにつかねているのが色気であって、それももはや本人の色気ではなくて歳月そのものの色気だ、それがさすがに、ここまで老いこんだ身体を嫌うのか、自分から零れて散る」。そのとき生起する、終焉にして原初の性の香りには、もはや男も女もなく、すでに空であってしばし色だ、と。表現の終末にして起源がここにある。
(文芸批評)







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