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評者◆添田馨
詩の電子化をめぐって考えたこと(1)――詩作品を載せて運ぶメディアは、詩の内部か、外部か
No.2976 ・ 2010年07月31日




 詩作品を載せて運ぶメディアは、詩の内部なのだろうか、それとも詩の外部なのだろうか。最近、とみにかまびすしく論議されるようになった電子書籍をめぐる狂騒を横目で見ながら、ふとそんなことを考えた。私の当面の関心事は、近い将来に紙の本がすべて消え去って、詩集といったものも全部が電子媒体に鞍替えするような事態が想定されるとして、そのことは文学としての詩の本質部分に、何か重大な変更を及ぼす要因になるのかどうか、ということである。
 現在では、Web上で詩作品が発表されることは、特に珍しい話ではない。電子化された文字媒体を通して詩を享受することは、私たちにとっても普遍的な経験に間違いなく近付きつつある。であるならば、そこから一気に飛躍して、詩集がすべて電子媒体になったとしても、これからの詩の読者はなんら不便も不自由も感じないのかもしれない。
 だが、それはあくまで、詩のメディアを詩作品の外部と考えた場合の話である。逆に、そういったメディアを詩の内部と捉え返すなら、話はまた違ってくるのではないだろうか。
 私はある時、なにか文章を書く時に、自分でもよく分からない理由から、ワープロにするか手書きにするかを無意識に選択している自分に気がついた。私の場合、それは必ずしも文章の種類や内容によって左右されるものではなく、最近では携帯電話で原稿を書くこともある一方で、無地のノートに、さらさらとペン書きするあの感触もまた大好きなのだ。自分でも十分に自覚しないまま、ここで私は一体なにをどう選択しているのだろう。
 これだけは間違いないと思うのは、ペンで文字を書く、あるいはキーボードを打ち込むといった手作業が呼び起こす生体感覚上の微妙な差異と、その差異が影響を与えるところの思考プロセス内の時間の品質レベルを、私はそのつど選び取っているという実感だ。
 これら一連の行為が呼び起こす人間意識への影響関係は、詩をめぐる私たちの経験にもそのまま当てはまるように思う。詩を書いたり読んだりする行為の深度は、テキスト基材から受け取る思考時間の質によって、少なからず左右されるからだ。メディアが詩の内部だと捉える視点が、その場合必須となる所以である。そう考えると、詩集がすべからく電子媒体へと移行した場合に、私たちの文学の経験がまったく変質を被らないと考えるほうが、どうかしていることにならないだろうか。
(続く)
(詩人・批評家)







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