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評者◆稲賀繁美
世界のセザンヌ効果を検証する 下 :逸興 Russia and Global Cezanne Effect 1900‐1950 (March 26‐28, 2010, Boris Yeltsin Presidential Library)
No.2973 ・ 2010年07月10日




(承前)世界規模で「セザンヌ効果」を検証するには、極東の事例は閑却できない。その一例を挙げよう。京都で土田麦僊や小野竹喬が集った国画創作協会(1918年発足)。その顧問役だった美学者の中井宗太郎は『近代藝術概論』(1922)で、セザンヌのひとつの林檎は全ての林檎と等価である、とする解釈を示していた。下敷きにあるのは「一即多・多即一」という華厳経典だろう。その中井はセザンヌ論の章冒頭に「自己は万物であり、我が存在しなければ神もまた存在しない」との「独我論」的格言を引用していた。
 この解釈が中国で思わぬ展開をみせる。随筆家、漫画家として著名で『源氏物語』個人訳を残した豊子愷(1898‐1975)は、1930年、『東方雑誌』に「現代世界藝術における中国美術の勝利」と題する論考を掲載する。そのなかで豊子愷は「我なくして世界なし」という先の引用を、セザンヌ自身の言葉として紹介した。セザンヌの画境は、いわば東洋の胸中山水に類比可能なものであり、そこに豊は、近年の泰西絵画に顕著な「東洋画化」(英訳するならOrientalization)の兆候を見て取った。とはいえ、引用されたような言葉は『セザンヌ書簡集』に見つかろうはずもない。実際これはエクスの巨匠自身の言葉ではなく、中井が西洋中世の神秘家、マイスター・エックハルト(1260?‐1328?)から引いた説教だった。
 だが豊子愷の解釈は、迂闊な誤読というよりは、著者の意図的な解釈だったろう。すでに中井が、異端審問の嫌疑さえ受けた中世基督教神学者の言葉を仏典と重ねていた。この中井の著書を手にした豊は、ここにセザンヌ以降の泰西絵画の「東洋画化」を立証するのに最適の手引きを見いだした。ひとつの林檎と向き合い、これを黙想して「絵画における真理」に迫る神秘家。これこそ1920年代の極東世界が到達したセザンヌ像の究極にほかならない。
 この中井から豊にいたるセザンヌ解釈は、けっして気紛れでも逸脱でもない。浩瀚なる『日本南画史』(1919)の著者、梅澤和軒(1871‐1931)は、1921年、『早稲田文学』に「表現主義の流行と文人画の復興」を掲載し、ドイツのExpressionismusと極東の文人画復興とを、第一次世界大戦終了に伴う同時代並行現象と論じていた。
 さらにその先駆となったのが富岡鐵齋(1836‐1924)晩年の再評価だろう。鐵齋を初めて訪れた西洋人、クルト・グラーザー。かれはマネ以降の、筆触を画面に残す制作を、東洋の水墨画と類比して評価する東洋美術研究家だった。小野竹喬は晩年の講演会のおり、青年時代セザンヌの白黒複製と、京都の平安堂で観た鐵齋とにあい通じるものを感じたと述べ、鐵齋84歳の《太湖競漁図》にセザンヌの筆致に共通する生命感や精神性の横溢を見た旨の証言を残している。
 現在、東京都写真美術館他で個展開催中の森村泰昌には《批評とその愛人》(1998)がある。セザンヌの《リンゴとオレンジ》(1899頃、オルセー美術館)を下敷きにした作品だが、なんとそこでは、セザンヌの果物ひとつひとつが、森村の顔に置き換わっている。森村の顔面という唯一性が、ここでは無際限に増殖され、さながら「一即多・多即一」を実践してみせている。セザンヌの林檎は、藝術家の「我」の刻印だった。
 森村の本作品は、極東1920年代におけるセザンヌ解釈が、けっして過去の遺物ではなく、現代にまで命脈を保っていることを裏書きする。はたして森村は、自分が卒業した京都市立芸大でかつて学長を務めた中井宗太郎の、独我論的セザンヌ解釈を知っていたのだろうか? ポストモダンを突き抜けたこの現代美術家が、Global Cezanne Effect in Modern Japanという伝統の体現者だったことだけは疑いない。(了)
(国際日本文化研究センター研究員・総合研究大学院大学教授)







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