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評者◆高橋宏幸
言葉と行為――山下残公演『せきをしてもひとり』@ポストメインストリーム・パフォーミング・アーツ・フェスティバル
No.2973 ・ 2010年07月10日
数年に一度、「ポストメインストリーム・パフォーミング・アーツ・フェスティバル」というフェスティバルが行われる。パフォーマンス・アートに焦点を絞ったフェスティバルという特徴はもちろん、上演されるいくつかの作品には、確実にそこで生起する事態に対して、なにかを考えさせる要素がある。大規模なフェスティバルではないが、貴重なフェスティバルといっていい。そのフェスティバルの一つとして、山下残の『せきをしてもひとり』が上演された。
この作品自体は、すでに若手を対象とした賞である京都芸術センター舞台芸術賞を受賞して、バンコクでもバージョンを変えて公演されている。今回もまったくの再演ではなく、作品のコンセプトなどはそのままで、多少バージョンを変えて上演されたという。すでに作品の評価は定まったといえるが、その評価軸はダンサーでありコレオグラファーである山下残の位置に即して、主にコンテンポラリーダンスの文脈で捉えられている。しかし、作品のコンセプトとして「ダンスの戯曲化」を謳う以上、たとえば演劇、もしくはこのフェスティバルの趣旨であるパフォーマンスとしての文脈など、より広い視点からこの作品は見られることを要請しているといっていい。 この作品がユニークなのは、『せきをしてもひとり』というタイトルにもあるとおり、自由律俳句の放浪の俳人、尾崎放哉の俳句を使って作品が構成されることだ。小さな空間で、すぐ背後にあるスクリーンに文字が映る。山下残一人が、その言葉通りに動作をこなしていく。最初は、「せき」、「あくび」、「のむ」など単純な動作だ。だが、単純な動作であっても、呼吸を吸う、吐くなど、ブレスをする位置まで細かい指定の記号がスクリーンには映し出される。そうやって指定された言葉や記号に従って体を動かしていく。 それは演劇になぞらえるならば、戯曲に書かれた台詞やト書きの指定をこなす俳優だろう。あらかじめ指定された言葉がないかのように、いま私が話をして行為をしたかのようにふるまうことが名優の条件ならば、山下残も同じようにナチュラルにそれらをこなしていく。しかし、まるで「与えられたとせよ」として、スクリーンには徐々に尾崎放哉の自由律俳句が、指示する言葉としていくつも入れ込まれる。たとえば、「なんにもない机の引き出しをあけて見る」とか、「とんぼがとまりに来てくれた」などだ。単純な動作からそれらの俳句に対する動作をしていく身体は、まるで指示がないかのように体を動かしていても、動かされている身体として、どれだけ上手く「演技」をしても浮き上がっていく。そもそも定型の俳句ではない、句切れが外された放哉の自由律俳句は、やはり見ているものにかすかなリズムの違和感を差し挟む。その句の言葉をパントマイムのように見せようとしても無理がある。 それは「演技」がこなせていないというよりも、言葉と行為の関係が、いわゆる「演劇」の俳優を成立させることから逸脱する契機となっている。行為する身体とそれを規定する言葉。この二つは、言葉と身体が一体化された瞬間に上手い「演技」となっても、この作品では俳句や言葉によって指示される動作が、行為のみを映し、言葉と行為がそれぞれを照らしあう。ときに言葉と行為が同期しながらも、確実に非同期性が挟まれる。行為が取り残されて、スクリーンに映る言葉だけが浮き上がる箇所もあれば、行為のみが残る箇所も出てくるのだ。それは、スクリーンに映し出される言葉という紙片と、身体の行為を見つめる眼差のあいだにあるといってもいい。 これは、いわゆる「演劇」の演技論に対して、まったく別の視点から問題を設定している。おそらく、行為が言葉や意味を照らすということは、この作品で目指された「ダンスの戯曲化」ということだろう。だが、それはダンスのみの文脈ではなく、演劇における戯曲と行為(演技)という問題も同時に提起している。戯曲の言葉が行為を規定するものであるならば、ここにあるのは単に一方向的に言葉によって規定された身体ではない。その意味で、これは演劇とダンスというものの狭間で、言葉と行為という関係を問い直そうとした作品といえる。 だから、この演劇でもなくダンスと片付けることもできない、その間にある作品が、パフォーミング・アーツ・フェスティバルで上演されたことはより意味をもつだろう。 |
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