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評者◆秋竜山
東郷大将も人殺しも、の巻
No.2973 ・ 2010年07月10日
大和魂というものは、いつも眠っている。突如起き出す。忘れていたものを起こすようなものだ。ふるい立たせるためか。大和魂という響きに勇気がわいてくるものである。と、いいつつも、私自身、一度でもこの〈大和魂〉という言葉も使ったことがあるかというと、「……」ないようにも思えてくる。そういうチャンスがないのか。あったとしても気がつかなかったのか。時折り、誰かが〈大和魂〉などと叫んだりすると、ドキッとするものだ。新しいような古いような言葉である。水川隆夫『夏目漱石と戦争』(平凡社新書、本体八八〇円)に〈大和魂と送籍〉という項目がある。
〈『猫』第六回には、主人が自作の名文「大和魂」を迷亭、寒月、東風らの前で朗読する場面があります。(略)「大和魂!と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした」(中略)「大和魂!と新聞屋が云ふ。大和魂!と掏摸が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」(中略)「東郷大将が大和魂を有って居る。肴屋の銀さんも大和魂を有って居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有って居る。」(中略)「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云ふ声が聞えた」(中略)「三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る」(中略)「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。(中略)大和魂はそれ天狗の類か」〉(本書より) 大和魂と戦争がむすびつくとしたら、大和魂などという言葉は悲惨でしかないだろう。「いや、別の意味での大和魂である」なんて、そんなことってあるだろうか。第一に別の意味とはどのような意味なのか。〈大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る〉というなら、〈別の意味〉も、ふらふらした魂のようなものにも思えてくる。 〈もし「大和魂」が新聞などに見るように、日本人ならだれでも持っているすぐれた精神であるならば、「東郷大将」も「肴屋の銀さん」も「詐欺師、山師、人殺し」も共通して持っている精神ということになる。そのような自分でも意味のわからないものを大和民族の優秀性として誇っているが、現実の日本人は「肺病やみ」のように疲れ切っている。(略)〉(本書より) 大和魂とは一種の気合いのようなものか。たしかに、大和魂などという鉢巻きをすると、血がわいてくる。しかし、誰もいない自分一人だけのところで、大和魂と書かれた鉢巻きをしても気分がのらない。大勢いる所でやると、大和魂が生きてくる。要するに、大和魂というものが自分の身体にのりうつるということか。一つの身体の中に自己魂と大和魂が二つ同居することになる。この時、自己魂は大和魂によって隅のほうへ追いやられてしまう。大和魂は一つの大きな目標を持っているが、自己魂には目標などというものがない。生きながらに魂のぬけたような人間というのがあるとしたら〈三つ子の魂百までも〉ということから、三つ子の魂と書かれた鉢巻きをおすすめしよう。 |
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