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評者◆杉本真維子
影絵の人
No.2973 ・ 2010年07月10日




 共通言語を持たない人と会う、ということは勇気がいる。というより、そのような試みじたい、非常識かもしれない。いったいどうやってコミュニケーションをとるのか。そんな不安を抱えながら、私は台湾行きの飛行機にのっていた。
 その人と、実際に会えるか、ということよりも、むしろ言語のないコミュニケーション世界への「夢見」が、なぜか私を未来のほうへとひっぱっていた。そういうと、勝手な話に聞こえるが、台湾行きには別の理由があって、約束をしていたわけでもない。何より、言葉の通じない外国人と本当に会ってくれる人がいると信じるのは、欺瞞であるように思えた。
 ところが、その人は、息を切らせて、ホテルのロビーまで迎えにきてくれた。電話で待ち合わせるにはそれしか方法がなかったのだが、その人がどこから駆けつけてくれたのか、本当は用事があったのかどうかも、何もわからないまま、夕飯を一緒に食べることになった。
 私が滞在したのは、台北市の西門町で、日哈族といういわゆる「日本好き」の若者たちが集まる、台湾の渋谷と呼ばれる繁華街だ。何を食べたいかと聞くので、その人の好物である麻辣臭豆腐を食べてみたいと言うと、ほんとに「臭い」けど大丈夫!? と、ちょっと心配そうに笑っていた。
 席について、会話ともいえないような、不思議な時間をすごしていると、茶色い豆腐と白滝が入った鍋が二つ、ぼんとテーブルに置かれた。噂どおり、鼻にくるにおいが独特で、たしかに「臭かった」が、味は美味しいという不思議な食べ物だった。
 でも、その微妙な味覚を中国語でとっさに表現できず、味はどう? と聞かれたとき、思ったほど辛くないですね、と余計なことを言った。すると、その人は、店員さんに頼んで、もう少し辛くしてくれたのだが、今度は辛すぎて、食べられなくなってしまった。
 目を真っ赤にして、涙をうっすらためて、非常に辛いと言いながら、その人は食べていた。申し訳ないと思いながら、私も目に涙をためて、いっしょうけんめい、もくもくと食べた。そのあと、どこで買ってきてくれたのか、甘いタピオカミルクが一つ、私の前に置かれた。
 帰り際、こんな会話もままならない外国人によく付き合ってくれたと、感謝の気持ちが溢れでて、お礼を言ったあと、深々とした75度のお辞儀が一回、自然にでた。顔をあげたとき、その人は目をまんまるく見開いて、ひどく驚いた形相で立っていた。
 え、いま私、何かしただろうか。習慣とはすごいもので、自分がお辞儀をした、ということすら、気づいていなかった。その人が見せた一瞬のこわばりと、直後の笑顔が混ざりあって、日に日に妄想的に、記憶のなかで、複雑な表情へと移り変わっていくようだ。あとから思い出したが、そういえばお辞儀は、日本人独特の礼儀作法であった。
 いま私のなかで、その人の所作のひとつひとつが、影絵のように残っている。ふだんは、言葉と行動は互いに補いあって、細かな意味を形成し、他者への理解として導かれるが、言葉が欠けたときはそこに影が生まれ、謎となって動きはじめる。
 その謎は、心を無言であたためもするし、行動を侵食するというこわいこともする。その人は、息を切らせて駆けつけて、終始やさしく微笑み、辛さに涙を浮かべ、お辞儀に仰天し、笑顔で帰っていった。それ以外のことは、なにひとつわからない。でもそれ以外のことなど、この世のどこにあるのか、というほど、「目」はなみなみと孤独に満たされている。
(詩人)







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