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評者◆白井 聡
「アジア主義」への関心の高まり――共産党が支配している中国をどのようにとらえるか
No.2971 ・ 2010年06月26日





 周知のように、世界的な冷戦構造の崩壊は、一九八九年のベルリンの壁崩壊と、一九九一年のソ連邦崩壊によってその時期を画される。しかしながら、その思想的清算、言い換えれば、冷戦後の世界秩序に対応した思想的陣形の自覚的な形成という事業は困難な課題であり、未だに不透明な情勢が引き続いているように思われる。欧米では、「歴史の終わり」論がいち早く登場する一方、それへの批判も活発になされ、その後はヨーロッパ統合や旧ユーゴ紛争、九・一一事件、対テロ戦争といった「ポスト冷戦」の世界を特徴づける政治的事件と並行しつつ、〈帝国〉論ブーム、ネオコンの台頭と凋落といった思想的運動が歴史的現実と対話する形で生じてきた。こうした状況と引き比べてみた場合、日本の状況は何とも掴み所がないものであるように筆者の眼には映る。政治の状況も経済の状況も日々刻々と変化しているのは間違いない。だが、それを把捉する言葉をわれわれが見つけ出していないのであろう。この不透明な状況の原因のひとつは、北朝鮮の問題、沖縄米軍基地問題、日露北方領土問題に代表されるように、東アジアにおける冷戦構造が未だ解消されていないというところにある。あたかも彷徨える「アジア的停滞性」の亡霊がわれわれを呪縛しているかのように、これら「冷戦的」問題はひとつとして解決の目処が立っていない。そして、こうした政治的現実に付き合うかの如くに、「ポスト冷戦」期の思想状況は、明快な輪郭を形成するに至っていない。おそらく、二〇一〇年代はこの不透明性が相対的に解消される(それが好ましい結果につながるのか好ましくない結果につながるのかは分からないが)時代となるはずである。
 さて、この十年来「アジア主義」への関心の高まりには顕著なものがあった。中国そしてヨーロッパにも波及していると言われる竹内好への関心や、満洲国の理想と現実の再検討、中島岳志の『中村屋のボース』(白水社)への注目等々を挙げることができよう。歴史上のアジア主義を今日どのように振り返り、評価するのかと問うことはそのまま、右に述べた困難な状況を克服するための模索の試みとなる。なぜなら、言うまでもなく、アジア主義をその起源にまで遡って検討することにおいては、わかりやすい(=冷戦構造に規定された)右翼・左翼の構図は何の役にも立たないからである。つまり、アジア主義への言及はそれ自体がすでにひとつの戦略なのだ。アジア主義について積極的に語ることは「政治的正しさ」を踏み外す可能性をはらむが、まさにこのリスクを冒さない限り、「アジア的停滞」(=硬直化した思想状況)を再生産し続けるという悪循環から脱出することはできない、という危機感がここにはある。逆に言えば、いまだ幅を利かせている冷戦的な「政治的正しさ」の枠組みに揺さぶりをかけるために、歴史上のアジア主義に関する言説は語られている。その意味で、アジア主義への問いは、イデオロギー的な介入にほかならない。
 そして、アジア主義の背景となるアジアの現実の状況はさらに複雑さを増してゆかざるを得ないように思われる。中国を含めた新興国のさらなる経済発展と国際舞台での政治力の増大が見込まれる一方で、その経済発展が基本的にネオリベラリズムに依拠した野放図なまでの搾取の論理によって駆動されていること(その帰結のひとつが昨今のタイの騒乱である)、依然として存続している圧制国家、被抑圧諸民族の存在、核拡散、といった具合に政治的な不安定要素は山積している。付け加えると、「サヨク」だの「ウヨク」だのと騒げば何かを考えているのだと思い込んでしまう現代日本人の退嬰性も、遺憾ながら政治的リスクのひとつに数えられなければならない。これらのファクターが複雑に絡み合うなかで、おそらく、アジア主義という未だかつて実現されたことのない理念は、思想的かつ政治的な重みを持つことになるだろう。もちろんそれは、牧歌的な理想主義が力を持つなどということではない。全く逆である。かつての「大東亜共栄圏」の理念がそうであったように、国家間の苛烈なパワー・ゲームにおいて、この理念が重大な機能を果たす可能性があるということだ。この言葉、理念を、どこの誰が、どのようなものとして引き受け、そしてどのようなものとして実行するのか(言い換えれば、どのような秩序をつくり出すのか)、というすぐれて政治的な問題として、アジア主義は現象すると思われる。なぜならそれは、この概念は歴史的に元来そのようなものであったからであり、今日この概念をわざわざ取り上げるならば、そこにはらまれた理念と血の絡み合った記憶が否応なく甦るからである。
 アジア主義をめぐる思想的政治的情勢がアジア全体でいかなるものとなりうるのかを論じることは、筆者にはできない。提起しておきたいのは、このアイコンが日本の文脈でどのように機能し、どのような人々によって領有されるであろうか、という問題だ。この問題の中核には、現に共産党が支配している中国をどのようにとらえるかということがある、と思われる。アジア主義の問題が「王道か覇道か」(孫文)という問題であるのならば、筆者の眼にいささか奇妙に映るのは、王道に関心のない人々によって覇道が批判され、覇道を憎む人々によって王道が語られてはいないようにも見える事態である。より具体的な話は次回以降に譲るが、この逆説を解きほぐすことが新しい政治的な想像力につながる、と筆者は考える。
(つづく)
(政治学者)







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