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評者◆生野毅
俳句の国際化とナショナリズム――金子遊監督作品の『ベオグラード1999』(09)を観ながら
No.2969 ・ 2010年06月12日
先般、渋谷・アップリンクで若き俊英の映像作家・金子遊氏の『ベオグラード1999』(2009)を観た。すでに世評高いこの作品は、一水会の木村三浩氏の国内外での動向を、金子氏自らが手持ちのハンディカメラで追ってゆく、というものである。当初はアメリカ大使館への激しい抗議運動や旧来の「右翼」とは異質な論理的説得性を持った木村氏の語り口調に親近感を覚えていた金子氏は、しかし、海外の極右の大物と交友を深め、一水会内部での地歩を固めてゆく木村氏の姿に懐疑的になってゆく。映画のラスト近くで金子氏自身の切実なナレーションが次のようにかぶさる。「私はそこ(註・政治運動の果てにある権力)から遠く離れて、小さな歴史の側につくことを選ぶ。ひとりひとりの小さな事柄について語るだろう…」。ところで、何故俳句の欄に私はこの映画について書くのか。それは、この映画で語られている共同体と個の関わりというものが特定の政治思想の枠を越えて、俳句という日本固有の(ナショナルな、というと語弊があるが)詩形式の在り様を想起させるものがあるからだ。
近年、俳句の国際化が盛んであり、海外俳人の数も膨大なものとなってきている。そのことは良い。しかし、国際俳句の推進者たる人々の「俳句は日本の対外的文化的戦略として最も有効である」(夏石番矢)、「俳句作品は一句でピカソの作品に匹敵するんだと…そういう俳句が出来るような環境とそういうコンセンサスを世界に向けて作っていかなあかんと思っています」(西村我尼吾)といった日本企業の海外進出を思わせる発言に鼻白むのは私だけだろうか。世界最小最短の詩形式である俳句は、一つ一つは孤独であるが、その孤独は俳人の特定の党派、あるいは俳句という共同体への帰依を前提とすることが通念とされている。詩人の北川透氏が「人は一人では生きられないが、単独者たる道を模索すべきだ」と語っているのとは真逆な通念が、俳句界をおおむね支配している。 それ故、海外という他者との遭遇の時空間もまた、俳句界という内部の仮構につながりかねない。過剰なナショナルな心情、あるいは何事かの絶対化への心性は確固たる連帯ではなく孤立感から生まれる。しかしその孤立感は普遍化されたときに切実さを失った政治や権力へすり変わる。孤立感は「小さな歴史の側につく」「ひとりひとりの小さな事柄を語る」孤独へと転じてゆくべきだということを、俳人は今考えるべきではないだろうか。 (俳人・文芸評論家) |
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