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評者◆前田和男
第77回 松下幸之助翁の新党構想に学んだ細川
No.2965 ・ 2010年05月08日




 幅広い「人脈」と潤沢な「金脈」ゆえに細川は「よきに計らえ」と部下にすべてを委ねる殿様のように思われがちだが、金成によると、意外にも戦略家であったという。これまた日本新党の知られざる一面であろう。
 そもそも細川は政党による政治運動ではなく国民運動を目論んでいた。本人もそう語っている。「そのときは、すぐ新党を、ということは考えていなかったんです。七月の参議院選挙まで運動論をどういう風に展開するかということを考えていまして(中略)、参議院選挙の直前まで私自身がバッジをつけて議員になることには抵抗しました」(『「新党」全記録』)。また熊本県知事以来の側近の永田も、前掲の二〇〇二年九月一八日、日本新党の同窓会で「(第三次行革審で細川は)いろいろ壁にぶつかられたようで、一年ぐらい経ってから、国民運動的なものをやらないと壁を破ることは難しいとの思いが強くなられたようです。しかし政党のことまでは考えていなかったように思います」と証言している。(前掲パンフレット『永田良三さんと日本新党』)
 では、細川は、いったい何時からどういう経緯で新党を発想したのか。
 これについて、金成は興味深い指摘をしている。細川は(幻に終わった)松下幸之助の新党構想に触発されたというのである。一九九一年春のこと。臨時行政改革審議会「豊かな暮らし部会」部会長を務めていた細川は、自社を中心とする五五年体制の壁を実感、これをなんとしても打破しなければならないと思いいたるなかで、幸之助翁の側近でPHP研究所社長の江口克彦を訪ねた。翁はすでに二年前に他界していたが、江口を通じて、翁が細川と同じく自社五五年体制を打破するための新党を準備していたことを知ったのである。
 翁の新党構想には、政治にマネジメント手法を導入し、政府の積立金の運用益で国家財政を賄う「無税国家論」というユニークな理論的バックボーンがあるが、細川はそれにはあまり関心を示さなかった。それよりも細川が惹かれたのは、新党づくりの戦略的ロードマップだった。金成によると、翁が自民党一党独裁に風穴を開けるために新党結成を決意したのは、日本新党のそれよりも七年早い一九八五年で、そのロードマップとは次のようなものだった。
 1松下幸之助が設立したシンクタンク「PHP研究所」が設立四〇周年を迎える一九八五年一〇月に、新党づくりの準備事務所を設置、具体的な政策立案のための議論を開始する。
 2新党結成時には候補者ともなる「発起人」を一〇〇名を目処に募る。
 3松下幸之助の著作として、『経営としての国家運営』『新国家運営論』を出版。これを通じて、新党の必要性を発信する。
 4一九八八年夏のソウル・オリンピック直前に、新党結成を発表する。
 5松下幸之助名で『私の決意』を出版、一〇〇万人を目標に党員の獲得運動を展開する。
 これを細川の日本新党立ち上げと対比させてみると、いかに「細川新党」が「松下幸之助新党」に影響を受けていたかが一目瞭然だ、と金成は指摘する。ちなみに、
 1九二年二月の「各界の著名人の名前が五〇名ほどずらりと並ぶ新党賛同者リストを作成」は、松下翁新党構想の「発起人一〇〇名を募る」に(さらにいうと、前述したように、『サンデー毎日』に「細川新党マル秘リスト」をすっぱ抜かれるが、記事中で大前研一が取材に答えて、細川から「応援団を百人つくるとしたら誰か」と相談されたと証言しており、「百人」という数字は松下新党の発起人の数とぴたりと一致する)
 2同年五月一〇日「『文藝春秋』での「自由社会連合結成宣言」の発表」は、「松下幸之助名の著作出版」に
 3同年六月一五日の「「新党を支える会」結成による党員獲得開始」は、松下幸之助新党の「一〇〇万人を目標に党員の獲得運動を展開」に,みごとに符合している。
 本稿冒頭でふれたように、細川は『文藝春秋』に「結党宣言」を発表し、たった一人で記者会見をするなど、無手勝流のような振る舞いをし、そのパフォーマンスが国民の間に共感を呼んだ。マスコミや研究者もふくめ多くの人がそう思いこんでいるようだが、実は無手勝流どころか、細川の日本新党は、松下幸之助新党のプログラムを踏襲したものだと金成はいうのである。
 ただし両者が異なるのはスピードだ。松下幸之助新党は、三年間の準備を経て本戦に入るとした「用意周到型」であるのに対して、細川新党は、発起して一年で党を立ち上げるという「短期決戦型」。細川が秀吉の墨俣一夜城さながらに先を急いだのはなぜか。
 それは、当時の政治状況にあった。小沢一郎と武村正義がともに自民党を割り、一気に政界再編が進もうとしていた。じっくり腰をすえて三年も準備していたら、時機を逸してしまう。拙速でもいい。そう細川は決断したのではないか。それによって細川は首相の座を手に入れた。しかし、拙速ゆえに連立政権も日本新党も短命に終わったのは、歴史の皮肉であった。
 なお、松下幸之助翁の新党が幻となったのは、翁が着想を得てまもなく病いを得て、気力と体力が失せたこともあるが、それよりも土光敏夫をはじめ財界の有力者に話をもちかけたところ、自民党との繋がりゆえに協力を得られなかったからだといわれている。(文中敬称略)







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