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評者◆安藤礼二
歴史と文学と忘却のあいだで――「自然」のなかに表現を解放し、批評を超え出た文学作品「批評と殺生――北大路魯山人」(大澤信亮、『新潮』)
No.2964 ・ 2010年05月01日




 無数の事実が無差別に積み重ねられていく「歴史」と、私の固有の想像力からはじまる「文学」と、両者の間にはどのような関係が結ばれるべきなのか、もしくは両者はいったん関係を絶つべきなのか否か。それは、なかばは「私」のものであり、なかばは「世界」のものである言語を使って作品世界を創り上げていかなければならない表現者が、必ず一度はぶつかる大きな問題であろう。歴史からは切り離されてしまった抽象的な場所を舞台に、関係性の実験が行われ、主人公たちには目的のない彷徨が強いられ、その過程で未知なる存在へと変貌を遂げてゆく。いわば文学的な表現が歴史的な世界から自律することが求められ、歴史に抗する表現の新たな母胎となるべきものが模索される。今月号の文芸各誌に掲載された作品のほとんどに共有された物語の基本構造であり、おそらくは文学が文学である限り、不可避的にその実現を目指さなければならない表現の地平でもあるだろう。
 しかし本当にそれだけで良いのか。歴史とは、なによりも人々に忘却をもたらすものではないのか。作家の九割が、時間の流れのなかで「忘れられる」。歴史からの自律を目指した「小説」が歴史のなかに消え、固有の価値を担っているはずの「僕」もまた跡形もなく歴史のなかに消え去ってしまう。佐藤友哉が「割と暗い絵」(群像)に書きつけた一節である。「戦後文学を読む」シリーズの一環で、野間宏の『暗い絵』をモチーフとして書かれた連作小説の第一作であるが、佐藤はサリンジャー死去という歴史的な出来事を作品に導入し、繊細で忘れがたい一篇とした。同時代人である野間宏の「忘却」をサリンジャーと対比しながら語り、そこに「私」の切実な想いを込めている。佐藤はこの作品を含め計三誌にサリンジャー追悼を書き分けるというある種のふてぶてしさを持ち合わせてもいるが、ここで表明されている歴史観は、文学的な真実のある側面を確実に射抜いていると思う。
 都甲幸治の手になる貴重な情報の提供であり的確な総括でもある「戦争の記憶――評伝J・D・サリンジャー」(文學界)によれば、サリンジャーもまた、あえて自分の生涯と作品からユダヤ系の出自や戦場での体験を消し去って「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を書き上げ、一九六五年以降は一切作品を発表しないことで「偽装と隠遁」による表現者としての生を完結させた。そのことによって逆説的に、歴史に抗しながら作者と作品の名前を歴史に残すことが可能になった。橋本治は「リア家の人々」(新潮)において、まったく異なった視点から歴史と文学の関係を捉え直そうとする。シェイクスピアの『リア王』を原型として、明治、大正、昭和を生きた一人の男・砺波文三とその三人の娘からなる一家の歴史をフィクションとして構築し、そこに二重写しになるように、文三の誕生(一九〇八年)から物語の現在時(一九六八年)に至るリアルな歴史を描き出そうとしたのである。
 橋本はこう記す――「人にはそれぞれの背景がある。同じ時、同じ場所にあっても、それぞれに得るものは違う。違うものを得て、同じ『一つの時代』という秩序を作り上げて行く。一切が解体された『戦後』という時代は、新しい秩序という収まりを得ることに急で、その秩序を成り立たせる一人一人の内にあるばらつきを知らぬままにいた」。架空の一家の物語は、意図的に事実と心情の客観的な叙述を心がけた報告書のような文体で記され、物語の話者はミクロの視点とマクロの視点を自在に往還し、歴史の複雑さそのものに迫ろうとしている。『巡礼』と『橋』から続く、橋本治による一連の異様な歴史小説の形式と内実が今あらためて問い直されなければならないだろう。橋本とは異なったかたちではあるが、三輪太郎の「ジュ・トゥ・ヴ」(群像)では個人と社会の歴史が「波」に変換されてしまい、青来有一の「スズメバチの戦闘機」(文學界)では自然と機械が分かちがたく融合した少年の妄想のなかで歴史が甦ってくる。いずれも鮮烈な読後感を残す作品である。
 歴史のなかで可能となった人間の生涯と作品を論じながら、歴史という概念も人間という概念も根底から解体してしまい、歴史と人間という概念がともに成立するこれまでとは別の地平に位置する「自然」のなかに表現を解放してやること。そのような不可能な試みに挑んだのが大澤信亮の「批評と殺生――北大路魯山人」(新潮)である。人間にとって生きることは食べることであり、食べることは殺すことである。食事は暴力そのものであり、人間である限りその暴力を逃れる者はいない。魯山人は食を介して「人間」という概念を打ち破る外部としてある「自然」に触れ、そのなかで「偶然的な受動性」に貫かれるまま、さまざまな作品を残した(山城むつみが文學界の座談会でトルストイについて述べていることとも深く交響する見解である)。大澤は魯山人を糸口として「独白、文献、伝記、理論、その先の記述へと」進んでいく。「卑近な他者との無限の食い合いが、絶対知を開示する」。歴史と文学をともに乗り越えて行く一つの方法、批評を超え出た文学作品がここにある。
(文芸批評)







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