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評者◆前田和男
第73回 「米の自由化」をめぐる妥協と安藤の離党
No.2961 ・ 2010年04月10日




当事者も驚く大躍進をとげた日本新党だったが、実は後に決定的な禍根を残す「内訌」が生じていた。ともに幹部として細川の「重用度」「親近度」をめぐってライバル関係にあった安藤博と松崎哲久の離党と除名である。
 衆議院選告示の前日の七月三日、九〇名の公認・推薦・支持候補発表とともに、安藤博政策副委員長が離党する。この日、日本新党は新党さきがけとの政策合意を発表するが、金成によれば、その合意事項に原因があったという。それについて、「毎日新聞」(九三年七月四日朝刊)は、「日本新党の細川護煕、新党さきがけの武村正義両代表は三日、東京都内で会談し、1)可能な限りの選挙協力を進める2)緊密な両党関係を築くために検討委員会を設置3)政治改革、行政改革、景気対策、地球環境問題で共同歩調をとる――ことで一致」したとし、基本政策の合意内容を次のように詳報している。
 「1)憲法を尊重、時代の要請に応じた見直しを努力し憲法の理念の積極展開を図る。
 2)国連平和維持活動(PKO)の厳格な法制化、PKO協力法の平和維持軍(PKF)凍結条項は当分、解除しない。
 3)コメの市場開放問題は例外なき関税化に反対。」

 さらに毎日は記事のなかで、この合意の目指すところとして重要な指摘をしている。すなわち「選挙後に両党が統一会派をつくり、将来、新・新党を結成することを念頭に置いたとみられる」
 日本新党と新党さきがけが「一つになる」ことは幹部の間では「既定路線」で、新党さきがけの代表代行(当時)だった田中秀征も自著『さきがけと政権交代』(東洋経済新報社)で、こう記している。

 「両者ともに生まれる前から親同士で結婚が約束され、それに都合の良いように仕立てられてきた、と言っても良い。」

 しかし、これはあくまでもトップ同士の合意であった。雑誌の対談で意気投合した田中秀征が細川と武村の間を取り持ったもので、両党の理念と政策が完全に一つになったわけではなかった。つまり両家の親・親族同士の「合意」であって、当人同士は必ずしも納得していなかった。ここに不幸な混乱の源があった。折りしもガットウルグアイラウンドで「コメの自由化」が不可避の国際問題となっており、これについて両党は正反対の立場をとっていた。すなわち日本新党は「コメ開放」、いっぽうのさきがけは「コメ守れ」。同じ非自民の保守系新党ではあったが都市型政党と農村型政党との政策対立であり、それぞれの政党のアイデンティティに関わる根本問題だった。だからこそ日本新党の政策責任者であった安藤は「コメの開放」に強い拘りがあった。そして代表の細川とはそれを共有していると思っていたのだが、選挙を前に、よりによって「コメ守れ」のさきがけに妥協してしまったのである。これが安藤に離党を決断させたと金成はみる。
 これには興味深い「後日談」がある。安藤の離党は、ある意味、さきがけに擦り寄る細川への失望の表現でもあった。選挙戦の途中で、日本新党は選挙後に新党さきがけと統一会派を組むだけでなく、いずれは合併して一つの党になることを発表した。しかし、皮肉なことに、両党は選挙後に連立政権は組んだものの、「結婚」には至らずやがて「婚約」を解消するのである。それについて後に細川はこう述べている。

 「さきがけとは結局、婚約して最終的に結婚しないということになったんだけど、その時何が問題だったかっていうと、結局さきがけはコメ開放に反対だったわけですね。我々はコメの開放に大賛成の方」(『「新党」全記録』インタビュー)

 これを安藤が聞いたらどうだろう。だったらなぜあのときコメで妥協したのか、自分の離党はいったいなんだったのかと、なんともやるせない気分に襲われるに違いない。

●禍根を残した知恵袋・松崎の除名

 大躍進の中で「内訌」がもうひとつ起きていた。安藤と並んで日本新党の「知恵袋」であった松崎哲久の除名である。それは衆院選の直前、候補者選びに腐心しているさなかの六月二三日に発表された。松崎は先の参院選で日本新党の比例名簿の第五位に登載され、次点で落選したが、一位の細川と二位の小池百合子が衆院選の「目玉」として衆院議員候補に転出。これにともなって松崎には繰り上げ当選の権利があっただけに、除名は大いに物議をかもした。
 「党員としての適格に著しく欠ける」が除名の公式理由だが、松崎が衆院選に立候補を画策、それで党内が揉めていた、あるいは事務局で確執があったからなどとマスコミで取り沙汰されたが、事務局中枢にいた当の金成からすると、それは皮相で外形的な見方にすぎない。それよりも松崎が代表の細川との距離感を測りそこねたことに根本原因があるのではないかという。すなわち、日本新党は、近代的な組織政党とはいいがたく、「細川個人党」的な色彩がつよかった。そのため、細川との距離感がなかなか難しかった、というのである。
 日本新党における細川護煕は、ある意味で、新生党、新進党、自由党(ひょっとしたら現在の民主党)における小沢一郎と似ているかもしれない。ナンバーツーが存在しない。小沢の側近を自認していても、当の小沢がそう思っているかどうかは小沢のみぞ知る。そのため距離感がとりにくく党内に軋轢や混乱が生まれる。当時の細川と松崎の関係もそれと似ていて、一時外からは松崎は細川の「側近中の側近」と思われていたが、細川本人がそう思っていたかは疑わしい。松崎は細川との距離感を測りそこねたのではなかろうか。前述した「基本理念(綱領)」をめぐる安藤と松崎の対立も、またコメをめぐる安藤の失望も、代表の細川との距離感に遠因があったともいえよう。
 ところで、松崎の除名によって、細川と小池の衆議院出馬による繰り上げ当選者は、名簿六位の小島慶三、同七位の円より子となった。松崎はそれを不当として提訴。一九九四年一一月、東京高裁は松崎の主張を認めて円の当選を無効としたが、日本新党側が上告。翌九五年五月、最高裁は「円の当選は有効」と逆転の判決をくだし確定した。
 なお、円より子はその後、細川や金成とともに新進党↓フロムファイブ↓民主党へ合流し、二回の参議院選挙で当選を重ね、現在は民主党の副代表・東京都総支部連合会長として大いに活躍している。
 いっぽうの松崎は、九六年暮れの民主党結成に参加。民主党公認候補として九六年、九八年、〇三年と三回衆院選に出馬するが落選。〇三年では北関東比例ブロックで辛うじて復活当選するが、〇五年の小泉郵政選挙でまたまた落選。今回の〇九年の政権交代で、はじめて小選挙区で当選を果たした。また、安藤博は離党後、活動分野を「平和問題」に転じ、東海大学平和戦略国際研究所教授となり、さらに地域紛争の非暴力的解決をめざす国際NGO「非暴力平和隊」の日本支部の事務局長として活躍、円とは異なった道を歩んでいる。
 安藤と松崎は日本新党のあり方をめぐって対立した「知恵袋」の両極であった。その議論を深めることがないまま、二人が党を去ったことは、日本新党の背骨を曖昧にさせることになり、それが結果として日本新党の政治的寿命を縮めた。それだけではない、どちらの才能をもいまなお高く買っている金成からすると、安藤も松崎も、離党と除名がなければ、細川内閣でしかるべきポストに就いていただけでなく、その後の細川政権のダッチロールを上手にコントロールしていたかもしれない存在である。さらに、多くの日本新党出身議員が活躍する現在の民主党政権でも要職に就いたと思われる。その意味からも安藤と松崎の離党はまことに残念なことであった。
(文中敬称略)







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