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評者◆白井 聡
いまひとつ「ノレない」感じのあった90年代の特徴的傾向――社会構築主義を柱にしているという側面での共通項はあるのだが……
No.2961 ・ 2010年04月10日




 九〇年代は、筆者が「現役」として語ることのできる最初の年代だ。前回「現実」と「理論」との無媒介的接続が九〇年代の特徴的傾向をなす、と私は述べた。それはひとつには、社会学的言説の隆盛として現れ、いまひとつは、仲正昌樹が言うところの「ポスト・モダンの左旋回」として現れた。二つの傾向は重なり合っている部分が大であり、また社会構築主義を柱にしているという側面では同じものであるとも言えるが、私の実感からすると、どちらにもいまひとつ「ノレない」感じがあった。
 前者について、北田暁大は、「『社会的なるもの』の肥大」とそこから帰結する「社会学帝国主義」について語っている(『責任と正義』勁草書房)。「『社会的なるもの』の肥大」とは、ひとことで言えば、社会構築主義的な物の見方が定着し、常識化することの効果である。すなわち、「あらゆる出来事・事象(芸術・政治・法・経済・教育・学問・親密性……)は、特定の社会的・歴史的状況のなかでつねに文脈化されつつ、言説や相互行為を介して構築されている。非歴史的な説明変数を用いて物事を説明する言説の様式(=物語)は、『社会的諸関係にみられる従属の多種多様な形態』を隠匿するものとして、社会的・歴史的に相対化されなくてはならない」(同書)。こうしてあらゆる実体的理念が抑圧的政治性を隠蔽するものとして批判の俎上にあげられうるものとなるが、この視点が特権化されるとき、「それは、『社会的な』文脈に引きつけて物事を語る方法――つまり社会(学)的な変数をもって世界を分節化する語り口――以外の語り口を抑圧する『理論』、『理論に対する抵抗についての理論』となってしまうのではなかろうか」(同書)、との疑念を北田は表明している。理念の抑圧性に対する抵抗が、それ自体抑圧的なものとして現れかねない。突きつめれば、それは思想一般に対する死刑宣告となる。
 後者は、ポスト構造主義思想の政治的応用の本格化とともに始まった。世界的には、ポスト・コロニアリズム思想やカルチュラル・スタディーズと呼ばれる知の分野がそれを推し進めた。この傾向における最も見やすい事例は、国民国家批判の言説であろう。ベネディクト・アンダーソンの名著『想像の共同体』が翻訳されたのは一九八七年のことであるが、九〇年代には、同著で展開された議論はすでに確固たるパラダイムを形成していたように思われる。この時点において、ナショナリズム批判は質が変わった。日本のナショナリズムに対する批判はもちろん新しいものではない。変わったのは、あれこれの形の日本ナショナリズムを批判するのではなく、日本ナショナリズムそのものを批判しなければならない、というのが新しい常識となったことだ。言い換えれば、現にある「悪い」日本ナショナリズムを批判する――それは、現にない「望ましい」日本ナショナリズムを暗に提案しているということになる――のではなく、どういうものであれ、実体的概念として「日本」を想定するようなタイプの言説は、断罪されるべきものとなったのである。こうしたパラダイムにおいて、社会構築主義が大いに役に立つのは自明であろう。「日本」なるものは、相対化されるべき物語にすぎないのである。
 社会構築主義の方法論について、研究の現場にいる者の立場から言えるのは、これに依拠して「政治的に正しい」論文を生産するのは非常に容易であるということだ。論じる対象を選びさえすれば、結論はすでに決まっている――「何某は○○の概念を実体化しており、怪しからん」という結論――のであるから、この結論を裏書できるような記述を議論の対象から見つけてくるだけで「一丁上がり」、となる。本質的に頭を使う必要はない。
 もちろん、社会構築主義やポスト・コロニアリズムの言説の正体は、こうした新手の教条主義に尽きるのだと言ってしまうならば、それこそ暴力的な総括になってしまうであろう。それらの嚆矢となったサイードやバトラーといった思想家たちが重要な問題提起を行なったことに、疑いの余地はない。しかし、彼らの主張が誰にでも使用できる便利な方法として流通したときに何が生じたのかについては、批判的にとらえておく必要がある。
 ひとつには、社会構築主義的な批判理論は、二〇〇〇年代以降前景化してくる排外主義的ナショナリズムに対してほとんど無力であったということが、指摘されるべきであろう。「左旋回」の主唱者たちがまさに告知していたように、今日排外主義の全般的な高まりは否定しようがない。それは主に、日本経済のパフォーマンス低下、国際的競争における相対的な地位低下を背景としている。経済的弱者が排外主義者化していると断じる根拠はどこにもないが、経済的下部構造に基づく不安と閉塞感がこれらの現象の背景となっていることは確かだ。もっと言えば、それは国民経済という単位が崩壊しつつあることによって惹起されたものにほかならない。このナショナリズムはしばしば、ボーダレス化が否応なく進行しつつあるなかで、ますます内向きになろうという全く無意味な観念ナショナリズムにすぎないが、しかし、「政治的に正しい」ナショナリズム批判もまた、「正しさ」を超越的に振りかざしている限りにおいて、同程度に観念論であった。
(つづく)
(政治学者)







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