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評者◆小野沢稔彦
韓国現代史の記憶を帯びる暴力の発現と家族という制度の崩壊――ヤン・イクチュン監督・主演『息もできない』
No.2959 ・ 2010年03月27日




 人間存在の奥底に〈暴力〉への衝動が蟠っている。その暴力への欲望は〈家族〉という制度性が崩壊した空白に一気に噴出する。暴力を媒介に人間の根源と家族という制度と社会との関係性を描いた韓国映画の新しい波が日本に上陸する。韓国インディペンデンス映画『息もできない』(監督・主演ヤン・イクチュン)は、フヤケタ日本社会の中で弄ばれてきた「韓流」映像をはるかに超えて、家族という制度の崩壊の中で男と女、父性と母性、そしてなにより暴力という人間のあり様を問いつめる問題作である。
 本篇の主人公は、この社会のどこにも居場所を見出しえぬ、はみ出し者であり、世間もこのヤッカイ者に関わりを持とうとしないまま彼を無視し通り過ぎようとしている。男は半ばこのことを納得しながら、では別な生き方を見つけられるかと言えばそれもできず、ただ流れる日常に浮遊している。何より自分という不可思議な存在を持て余したまま、内から沸き上る暴力の欲望に自らのあり様を求めるのである。そして、インチキ闇金の貸金取り立て人として腕力を行使し、結果として圧倒的な実績を上げるスゴ腕でもある。
 そんな男の前に偶然に女子高校生が現われる。それまで男は、彼の存在を無視する社会の典型と女子高生を思っていた。しかしその女は、世間のようには彼と対応しない。正面から彼に向き合い、真っ当な言葉を彼に向けた。その不意の現われは、彼の知る世間と別にある、紛れもなく別の人間の出現であった。こうして二人の関係が始まる。とは言え、初めて人と向き合う男はただドギマギと彼の常識の中で女に向き合おうとし、彼女に易々と跳ね返される。女は生き生きと新鮮に振るまい、彼の常識を超えた対応をする。一方、彼の暴力への衝動はいや増し、世間的にはどうしようもない極道を演じることとなるのだが、この自己表出の過剰な露出には、韓国民衆の記憶の暗部に塗り込められた、韓国戦後史のトラウマが関わっていたのだ。そのことは同時に、女の現在にとっても無縁ではない。
 彼らの父・母の世代――ベトナム戦争参戦世代――が背負い続ける、戦争と民衆虐殺の記憶。確かに、ベトナム参戦は韓国に経済的発展をもたらしたが、出現した消費社会の中で、父たちは戦争の記憶を消費というイデオロギーの中に消尽できぬまま、精神の損壊と語りえぬ歴史を埋めるための代償行動として、圧倒的な直接暴力を閉じられた家族空間に発現する。それは子供たちにとって一方的で理不尽な暴力である。更に父はその妻に向って、外的暴力だけでなく性の尊厳に関わる侮辱を行い――父たちはベトナム女性を陵辱した――夫婦関係の断絶を強要する。こうして、これまであったとされる擬制の家族性は、歴史の中に解体される。そして男にとっては〈父殺し〉の情動の発現として、父と同じように暴力の裡にしか生きる術を見出せなくなるだろう。しかし母にかわって父や兄を自然に包み込む女は、男たちの噴出する暴力のあり様とは別な生を生きている。男は、彼にとって不思議な存在である女を眩しく見つめるだけだ。韓国現代史の記憶を帯びる暴力の発現と家族という制度の崩壊。このアナーキーな情況の裡で男の暴力のみが露出する。一方、その暴力に無限に共鳴しつつ、それとは別な生の芽生えも始まっている。
 二人の関係が進展するにつれ、男は自分が女を保護し、この社会から分離することを夢想し始める。更に差別される妹や甥を含めた、世間並みの幻想の家族像さえ夢想する。しかし、男は父権という旧いモラルに縛られたままだ。女こそが男を抱き包み込むことで、男こそが癒されていることに彼は気づいていない。やがて二人の間に〈性〉の関係性が意識され始める。しかし男は、性の関係性が現実化することを観念的に避けようとする。なぜか。男の認識の中の〈性〉は〈家族〉という血の継承性の謂であり、それは彼が知っている忌むべき関係性の表象である。男は性の欲動を忌避することで、記憶の中の家族とは違った幻想の関係性を作り出そうとするのだ。権力性なき父に、性関係なき夫になろうとし、汚れなき母と妻と子を伴侶とする空想の「聖家族」。しかしそれは彼の幻想でしかない。この幻想こそ、彼の裡に宿痾のように寄生する――社会的歴史的に規定された――ブルジョワ社会の最後のイデオロギーである虚構化された〈家族主義〉の幻想へと彼自身を封じ込めることとなるだろう。男が夢想した幻像の家族主義への傾斜――女は自然体のままの生き方の裡に、旧い家族制とは別な関係性を望見している――からは何も生まれはしない。そして、家族主義への苦い独りよがりの自己投企に終わりがやってくる。
 男の唯一の存在理由であった暴力という生き方からの逃走。その体を張ったあり様に、自らのあり様を繋ごうとしていた舎弟分――実は女の兄であり、やはりこの世間に居場所を持たない――によって、男は実にあっけなく暴力的に惨殺される。家族の解体の涯に浮上する暴力は一種の公共性を持っており、そこに自らの居場所を求めるしかない者にとって、暴力という公共性から一人抜け出そうとする者は、暴力によって抹殺されねばならない。それはそうかも知れない。しかし、この終わりはいかにも良くある映画的終わりではないか。だが殺されゆく男の奇妙に歪んだ表情の裡には、パターン化された映画の終わりと家族主義に拘束された自らへの無念さが滲み出してはいないか。この歪んだ表情の先と、ついに男たちの物語のラストに加わることのなかった女の、男たちとは別な生き方の先に次回作を期待したい。
(プロデューサー)
『息もできない』は、3月20日(土)よりシネマライズ他全国順次ロードショー。







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