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評者◆杉本真維子
放哉のお茶
No.2959 ・ 2010年03月27日




 尾崎放哉の句に「ひょいと呑んだ茶碗の茶が冷たかった」というものがある。むかし読んだときは、あまり印象に残らなかったはずなのに、何かにつけてふと思い出す。ずっとどこまでも、この地味な一句がついてくる。
 あ、冷たい、という、小さいけれど鋭い、唇の驚き。それは、物思いにふけって、ぼうっとした頭を目覚めさせ、夢の膜のようなものを破ったかもしれない。その膜の残がいがテーブルの上に散らばっていることに気づかないふりで、ごくりと、冷たいお茶をのむ。白けたとも、虚ろともいえない気分のまま、座っている人の上に、お茶が冷めていくまでの時間がぽかりと、浮かんでいる。それを、ただ眺める、ということすらしていないところが、放哉の魅力である。
 こういうことは、飲んだものが予想に反して冷たかった、というだけのこととして、すぐに忘れてしまうようなことだ。だからこそ、言葉にしてくれたことへの感動があって、冷たいものが喉を降りる瞬間は、ときに過酷なものを呼びよせているということを、私はようやく思い出す。たとえば、寒空の下で、ひやっとしたものを飲んだとき、身体ぜんたいが縦に窄まり、自分が釘のように冷たく、心細いものになった。また、ひょいと飲んだ、という軽妙さと、そこにある意外性は、いつまでも元気でいると思っていたひとの訃報に接したときの「蒼白」とも重なる。死にふれたときの激震、それを極々薄めていけば、この冷えた一杯のお茶とつながるだろう。
 私は以前、冷たいものをまったく飲まなかった。真夏でも熱いお茶やコーヒーを啜っていて、子どもなのに年寄りみたいだと言われた。なぜ?と問われたとき、冷たいものは心が冷える気がするからいやだと答えた。そんな痛々しいナイーヴさみたいなものは、思春期にはナルシスがひそかにほこり、それを過ぎると嫌悪されるものに変わり、さらに過ぎると憧れになるような気がする。いまはどのあたりにいるのかはわからない。ただ、自動販売機の前で、HOTかCOLDかの選択を迫られると、やはり今も季節に関わらず、HOTのほうを押している。ごろんと出てくる缶を両手でつつむと、ただ素直に、あたたかいものに寄り添いたい、という気持に気づく。
 その延長のような行為として、悲しくていたむ胸を和らげるために、心臓のあたりにカイロを貼る、という変なこともした。そのまったく理屈のとおらない療法は、あたたかい飲み物が喉から胸へとひろがるときの小さな幸福感と重ねられていた。結果はなぞだが、そこまでするほどどんな悲しいことがあったのか、内容を忘れているところに少しの効果がみえるようでもある。
 こういうことも、放哉のこの句に出会わなかったら、思い出すきっかけを持たなかっただろう。忘れてもよかったのか、思い出したほうがよかったのか、それさえ自分のなかではっきりとしないところがいい。そんな儚い状態の何かを引き上げる言葉のほうが、意味や目的、理由からのがれて、もっと遠くまで自分を連れていってくれそうな気がする。
 でもその誘惑は、ちょっとこわい。たぶん、言葉もまた、荷物を背負っていて、その、荷物みたいなものを下ろすところから、放蕩の旅は始まるのかもしれない。少なくとも、放哉は、旅に出るから荷物を下ろした、という順番ではないようだ。
(詩人)







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