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評者◆白井 聡
「現実」と「思想」との無媒介的な接続は、何を増殖させたのか――八〇年代から現在までを振り返りつつ考えること
No.2955 ・ 2010年02月27日




 二〇一〇年代が始まった。筆者が実質的にものを読むようになったのが九〇年代のことだから、そのような意味では、初めて迎える年代の変り目である。予言めいたことは好きではないが、日本のこれからの十年間に何が論じられるであろうか、何が論じられるべきなのか、連載を始めるにあたって、過去を振り返りつつ考えてみたい。
 「過去を振り返る」と言ったところで、筆者にとって実感できる年代は八〇年代からという近過去にすぎない。読書経験という点からすれば、八〇年代の遺産は強烈な印象を筆者に与えた。その中心にあったのは、言うまでもなく、「ニュー・アカデミズム」(と呼ばれたもの)である。浅田彰の『構造と力』、中沢新一の『チベットのモーツァルト』、柄谷行人の『探究Ⅰ・Ⅱ』……。このブームを出現させた時代背景を説明する要素を見つけるのは困難ではない。構造主義・ポスト構造主義思想の本格輸入、マルクス主義の頽勢、消費社会の全面開花、等々……。しかし、これらの諸要素がこれらのテクストの魅力を積極的に説明するわけではない。何よりも読者を魅了したのは、これらテクストの発揮した「つなぐ力」であった。文学、哲学、精神分析、宗教思想、人類学、経済学、建築、科学哲学といったありとあらゆるジャンルの言説が等価なものとして接続された。接続、交換、流通がもたらすエクリチュールの速度。それは「テクストの快楽」の源にほかならなかっただろう。ただし、そもそも商品が等価であるから交換されるのではなく、交換によってはじめて商品が等価なものとなる、というマルクスの論理に倣って言えば、そもそも等価なものが接続されるのではない。接続するという行為によって、はじめてこれらの言説は等価なものとして現れるのである。ならば、かかる接続が可能であったのはなぜか。再びマルクスによるならば、普遍的な交換が可能であるのは、前提として一般的等価物たる貨幣がすでに浸透しており、さらには貨幣の増殖を自己目的化した資本の運動が前提されているからである。あらゆるジャンルの言説に対する等価物の位置を占めるもの、それを例えば柄谷行人は「批評」と呼んだ。ただし、この貨幣によって知が増殖するという現実(あるいは共同幻想)がなければ、それは一般的等価物たり得なかったはずである。現に、「ニューアカ」を白眼視していた大学が、後になって「学際性」や「横断性」といった呪文によって、この「つなぐ力」を横領しようとしてきたのは周知のとおりであるが、それは何のブームをもつくり出してはいない。
 同時代思想史の野心的試みである佐々木敦の『ニッポンの思想』(講談社現代新書)は、八〇年代の思想が徹底的な商品化を所与の条件として受け容れつつそれでもなお「理念」を打ち出そうとする姿勢を持っていたのに対し、九〇年代の思想は「現実」への直接的接近、「現実」の端的な対象化に向かった、と論じている。そうであればこそ、宮台真司に代表される社会学的言説の隆盛が九〇年代を特徴づけるのは当然である、と言いうる。その背景には、無論、冷戦構造の崩壊、オウム事件、阪神大震災等の大事件や長期の不況があるわけだが、統合された世界資本主義の時空以外のいかなる「現実」も存在しないということが認識されるにつれて、「現実」を変更するための「理念」を語り出すことの困難は増して行った。社会学は、その起源(フランス革命)を顧ればわかるように、現実の混沌、何らかの理念によって社会の全体像を指し示すことが不可能であるような状況に対応するための知の形態である。八〇年代の思想が接続したのがさまざまなジャンルの知の総体であり、諸理念が縦横無尽に接続されたのであったとすれば、九〇年代において目指されたのは、理念抜きに、思想と現実とを無媒介的に接続する試みであった。念のために言えば、筆者は、九〇年代に頭角を現した論者たちは没理念(=没理想)的であり、したがって下らない、と言いたいのではない。それは、「歴史の終わり」の後になおも思想が成り立つとすれば、それはいかにして可能であるのかという問いに対するひとつのありうべき答えであったろう。
 このように見てみるなら、九〇年代の思想は、現実への直接的な介入への志向性という意味では、アンガージュマンの思想であるとも言える。ここに歴史の反復を見出すことは容易だ。すなわち、浅田彰の「逃走」という言い回しによって示唆されているように、「ニューアカ」的なるものは、七〇年代前半に自滅してしまったアンガージュマンの思想(=新左翼)に対する批判・反動を体現していた。それは、どのような意匠をまとっていたとしても、現実への直接的な介入からひと度身を引いて理念をつくり直すことを志向していた。してみれば、仲正昌樹が『教養主義復権論』(明月堂書店)で指摘しているように、九〇年代に前景化してくる「現実」への「実践」という衝迫は、実存主義的なものの回帰であると見なしうるはずである。
 問題は、「現実」と「思想」との無媒介的な接続は、何を増殖させたのかということだ。このことが二〇〇〇年以降問われることとなる。
(政治学者)







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