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評者◆前田和男
第65回 細川本人から新党参加の誘い
No.2952 ・ 2010年02月06日




 それから約十年――。
 「増税なき行政改革」を高らかに掲げ、国民の熱気あふれる輿望を担っていた土光臨調だが、一九八八年八月に土光が死んだ後は、大槻文平(三菱鉱業セメント会長、日経連会長)の第二次行革審、鈴木永二(三菱化成会長、日経連会長)の第三次行革審へと引き継がれる。しかし、「答申疲れ」からか、いつしか国民の支持もしぼみ、行き詰まり状態にあった。応援団である行革フォーラムも同じく閉塞感に襲われていた。
 そんなころ同じ常任幹事仲間である安藤と並河が、鈴木第三次行革審の「豊な暮らし部会」部会長であった細川護煕と鳩首協議しているのを何度か目撃したことがあった。
 それから数ヵ月後、『文藝春秋』六月号の巻頭に、細川護煕による「『自由社会連合』結党宣言」(以下「結党宣言」)が掲載されて、金成は初めてそれがその草稿づくりだったことを知る。
 その「結党宣言」は「国際情勢がかつてない激動に見舞われているなかで、日本の政治状況は、幕藩体制下の鎖国のなかに、惰眠をむさぼっていた幕末の状況と酷似している」ではじまり、格調高くこう結ばれていた。

 「日本と世界の将来を思うとき、私は自ら大海の捨て石になることを恐れない。荒海に漕ぎだしていく小舟の舳先に立ち上がり、難破することをも恐れずに、今や失われかけている理想主義の旗を揚げて、私は敢えて確たる見通しも持ちえないままに船出したいと思う。
 (略)この呼びかけに応じてくれる勇気ある同志たちが、必ずや全国津々浦々から海鳴りのように呼応して立ち上がり、やがて大きな船団が形成されるものと私は確信している」

 金成は一気に読み終えて、ついに細川も中央政治へ攻め上る決断をしたのかと感慨をおぼえた。というのは、一九九一年、細川が二期八年つとめ評価も高かった熊本県知事を、「権不十年」(権力の座に十年以上留まるべきでない)が持論だとして突然辞めたのは、実は「総理狙い」にちがいないと金成は思っていたからである。細川がまずソニー会長の盛田昭夫に相談したうえで、竹下首相に「東京都知事選出馬」の可能性を打診したのも、都知事をバイパスとして総理を狙う戦略と思われたが、すでに候補者が決まっており頓挫。
 そこで鈴木第三次行革審「豊な暮らし部会」部会長に就任。機会を窺っていた細川が「新党結成」を決断したのか、と金成は得心がいくとともに、その相談に「参謀」として乗ったのが並河と安藤だったのかと感慨を覚えたのである。感慨を覚えはしたが、六〇年安保に挫折して以来、あえて政治から遠く距離をおいてきた金成には、「わが事」とは考えられなかった。

●大事をなすには心もとない細川スタッフ

 ところが、いきなり「政治」のほうから金成に近寄ってきたのである。
 五月十日夜、金成の自宅の電話が鳴った。受話器を取ると、例の「細川でございます」で始まる雅な語り口で、新党運動への参加を誘われたのである。金成は即答を避け、細川の事務所で話を詰めることにした。
 数日後、東京乃木坂の細川事務所を訪ねたところ、ビルのワンフロアをパーティションで仕切った手狭なスペースに、三十前後の若いスタッフが五、六人いるだけ。細川の呼びかけにこたえて、「大物」たちが屯する「梁山泊」を想像していた金成は拍子抜けした。当時五十歳の金成には、大事を行なうにはなんとも心もとなくみえた。
 いっぽう事務所には、記者会見以来寄せられた千通を超える手紙が、壁にところ狭しとピンで止められていた。その中には、高倉健の細川へのさりげない激励文も混じっていた。
 頼りないけれど勢いと熱気はある。これまでの政治・政党事務所にはないアンビバレンツな雰囲気に金成は戸惑いをおぼえた。
 金成に心もとなくみえたスタッフとは、松下政経塾出身で同塾東京事務所長の長浜博行、長浜の政経塾の後輩で後に横浜市長になる中田宏、細川の地元・熊本事務所時代からの関係者で白洲次郎・正子の孫の白洲信哉らだった。
 その束ね役となった長浜にとっても、当初は心もとない日々だったという。長浜がスタッフにリクルートされたのは、細川が松下政経塾の評議員だったこと、そして長浜が塾生時代に熊本県知事の細川から地方分権のレクチュアを受けた奇縁があったからだ。
 ゴールデンウイーク前に細川から連絡があり、新党をつくるから応援してほしいと言われた。突然の話なので、どうやって新党を立ち上げるのか、ヒト・モノ・カネはどうするのかと長浜が「方法論」を尋ねると、『文藝春秋』に論文を出すという答えが返ってきた。本当に論文一本で新党ができるのだろうかと正直いって不安と疑問をおぼえたが、細川の言うとおりになって、驚くとともに長浜の身辺がにわかに慌しくなる。女性秘書二人しかいない細川事務所から長浜にSOSが入り、駆けつけると、とりあえず記者会見をやらなくてはいけないしマスコミの取材依頼もあるので助けてくれといわれ、その日から手伝うはめになった。そして、長浜一人では対応できないので、後輩で現役の塾生だった中田宏を引っぱりこんだ。
 それでも対応に追われつづけたが、見るに見かねて、地元熊本から、六十九歳の後援会事務所長の永田良三や地元秘書の関上伸彦をはじめ実務を担う支援者が続々と上京、なんとか事務所は回るようになった。
 事務所体制以外にも金成を逡巡させた問題がもうひとつあった。
 細川事務所を訪ねた夜、金成は安藤を交えて細川と会談をもった。その席で、安藤から「並河くんは新党に参加する意志がありません」と告げられたのだ。金成はショックを受けた。「結党宣言」の作成に並河が深く関わっていたことを目撃しており、並河はそのまま細川をサポートしつづけるとばかり思っていたからだ。どうやら並河がへそを曲げたのは、「結党宣言」をめぐって、元全学連委員長から保守の論客に「転向」した香山健一学習院大学教授と細川が関係を深めたことにあったと思われる。『文藝春秋』に「結党宣言」を掲載するにあたって、同誌編集長の白川浩司が細川と香山の仲をとりもったらしい。このため、そもそもリベラル派の並河は行革フォーラムで息が合っているとばかり思っていた細川に距離感を感じたからではないかと思われる。
 いずれにせよ、並河が不参加で金成が参加となれば、行革フォーラムに支障を来たす恐れがある。そこで、並河から了解をとりつけるのが条件であると、金成はいったん細川の誘いを留保した。
 それから三日後、金成は、安藤ほか一人を介添役に並河邸を訪問、金成が細川の新党運動へ参加することに同意を求めたところ、並河は終始不機嫌ながらも了承。金成は晴れて新党運動に加わることになったのである。
(文中敬称略)







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