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評者◆秋竜山
頭をかきむしっての笑い、の巻
No.2952 ・ 2010年02月06日




 木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』(文藝春秋、本体七五〇円)を、読んでいたら、こんな個所が出てきた。〈暗く貧しい現在を、せめて笑いのめしたい〉〈昭和二十一(一九四六)年頃〉笑いという文字が出てくると、「こーしちゃァ、いられない」という衝動で本のページに鼻を突きつける。笑いにふれていただくだけで、この著者は信じられるという気になってくる。
 〈このころわたしたちは、しきりに滑稽小説を探し出し、まわし読みしてみんなで笑いころげるということもしていた。過去を懐かしもうにも、思い浮かぶのは戦争がらみのいやな記憶ばかり、未来にはなんの夢も希望ももてそうもない。あるのは暗く貧しい現在だけ、せめてこれを笑いのめして楽しもうということだったのだろう。安吾もどこかで、笑いとは「その場での超越だ」と言って、ファルスや茶番といった滑稽小説を推賞していた。彼の言う滑稽小説は、いわゆるユーモア小説や諷刺小説とは違う。ほのぼのと心暖めさせたり、にんまり笑わせようといったしみったれたやり方ではなく、ふざけちらし、腹をかかえて哄笑させようというのだ。ねらっているのは、「世紀の果ての大笑い」だと、安吾は言っていた。〉(本書より)
 「世紀の果ての大笑い」とは、いったいどのような笑いであろうか。いや、笑いかたである。「ガッハッハッハッ」か「ダッハッハッハッ」か、「ギャッハッハッハッハッ」か。「グワッハッハッハッハッ」か。腹をかかえて、とあるが、腹をかきむしっての笑いということになるのか。頭をかきむしっての笑いか。うらやましいのは終戦直後というか、昭和二十年代前半の日本である。そんな中で生きていた人々である。そういう人が、あの時代にゴラクにうえていたというより強烈な、笑いにうえていた!! と、いわれると、その時代を知らないものにとっては、うらやましいどころのさわぎではない。「くやしい!! そんな時代に身をおきたかった」というより「笑いに、うえてみたかった真から」と、ひたすら、うらやむしかないのである。そういう時代を体験しているものから「ヘッヘッヘッ!! ザマーミロ」と、いう声がきこえてくるようだ。
 〈私たちが読んだものの名前だけ列記してみるが、そこからおおよその傾向を感じとっていただけようか。井伏鱒二の「円下辰邸」、坂口安吾の初期の短篇「風博士」に「勉強記」、谷譲次の「テキサス無宿」、昭和三年に出された改造社版「現代日本文学全集」のなかの「二葉亭四迷集・嵯峨の屋御室集」に収録されていたポターペンコ著、二葉亭訳の「四人共産団」、ポオの「実業家」「ハンス・プファアルの無比の冒険」、チェーホフの「煙草の害について」、(略)江戸の滑稽文学は、前にふれた「日本名著全集」の「西鶴名作集」や「滑稽本集」で読んだ。これらと並行して、笑いの理論、笑いの哲学といったものも、あれこれ読みあさった。(略)〉
 残念なのは、「あの頃、ナンセンス・マンガも、あさるように読みました」なんて、大哲学者の口からポロリと出てほしいものだが、「そー、世の中あまくはない」というものだろう。今のコミックと違って、あの頃のマンガは笑いの代名詞でもあった。たしかに、当時のマンガをみると笑いがイキイキしていたようだ。いやいや。なんだかんだいっても生きている今が一番。今の笑いが一番ってことに……。







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