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評者◆前田和男
短命だが大きな政治的インパクト
No.2951 ・ 2010年01月30日




 政権交代が起きて、日本新党ににわかに脚光があたりつつある。一九九二年五月の結党から、新進党へ合流する九四年一二月までのわずか二年半の「短命」であったが、戦後政治にもたらしたインパクトはきわめて大きいものがあったからだろう。
 ひとつには、「人」だ。政権与党となった民主党の要路を、たとえば、前原誠司(現在民主党衆議院議員、国土交通大臣)、野田佳彦(同、財務副大臣)、長浜博行(民主党参議院議員、厚生労働副大臣)、荒井聰(民主党衆議院議員、首相秘書官)、枝野幸男(同、首相補佐官)など元日本新党出身の政治家が占めている。もうひとつは――こちらがより大きいのだが、束の間であれ日本新党は政権交代を担ったことがあり、その「成功と挫折」、「功と罪」が今後の政権交代の行方を占う先行事例となるからだ。さらに、これはいささかワイドショー的関心事とのそしりを受けるかも知れないが、共に政権交代によって首相となった細川と鳩山の出自と作風が似通っていることもある。
 現在、日本新党の「創業者」である細川護煕が日経新聞に「回顧録」を執筆中である。他にも同党出身の「大物」が類書を書くかもしれない。しかし、それをもって戦後政権交代劇への「正史」とされるとそこから落ちこぼれるものがあることを恐れる。
 やはり、日本新党を「縁の下」で支えた「わだつみの声」を聞かねばならない。それにうってつけの一人が金成洋治だ。当時細川と日本新党がテレビや新聞で華やかに扱われるなかで、表舞台には出ず、ひたすら「事務方」と「参謀」に徹し続けた男である。大嶽秀夫『日本政治の対立軸』(中公新書、一九九九年)には、「新党結成時の政策ヴィジョン作りには、かつて第二臨調で中曽根ブレーンの一人として活躍した香山健一や金成洋治の助力が大きい」と記されている。
 今回からは、その金成の証言を中心に、「政権交代と日本新党」について検証を深める。後の民主党を含めて政権交代劇の中で多くの「新党」が生まれたが、そのほとんどが政治家主導であったのに対し、日本新党は事務局が強いマネジメント力を発揮していたとの評価がある(東大法学部・蒲島郁夫ゼミ編『「新党」全記録』全3巻、一九九九年、木鐸社。以下『「新党」全記録』)。その点からも、金成の証言は貴重と思われる。
 なお、金成からは、結党時のメモ(というよりは第一級の政治ドキュメント)を託され、一部引用の許可を得た。これに数回にわたる本人取材と、細川の公設秘書を経て衆議院議員になる長浜博行にも話を聞き、それを加えて本稿は構成されている。

●土光臨調の応援団のまとめ役

 さて、金成が細川護煕と日本新党の立ち上げに関わるには、興味深い「前史」がある。いささか長くなるが、まずはそれから記そう。
 金成洋治は一九四二年北海道札幌市生まれ。道立旭川北高校から大学へ進学、時まさに六〇年安保闘争のまっただなか。そこで金成は当時学生運動を領導していたブント(共産主義者同盟)のリーダーで故郷北海道の先輩だった佐竹茂(東大、社学同ML派指導者)、西部邁(東大、全学連幹部)、唐牛健太郎(北大、全学連委員長)らと出会い、思想的な影響を強く受けて学生運動にのめりこむ。しかし安保闘争は国民的盛り上がりをみせながらも戦後政治体制を変えるまでには至らずに敗北、金成は挫折のなかで運動から身を引いた。
 身の引き方、転身ぶりは当時としてはかなりユニークだった。
 左翼活動家には、妻をバーで働かせたりして糊口をしのぐタイプが多かったが、そうした職業革命家的処世は金成には古臭くて肌にあわなかった。二十代で、野村総研や三菱総研よりも早く、日本で最初のコンピュータを活用したシンクタンクを立ち上げた。そこでは日産自動車の中興の祖で「天皇」といわれた石原俊直系の山根美樹たちとタグを組んで、自動車産業の予測モデルをつくるなど先駆的な仕事をした。
 また、通産省の声がかりで「IBMに追いつき追い越せプロジェクト」に参画。ハードウェアでは五年でなんとか追いつけるが、ソフトウェアでは大きな差をつけられていた日本のコンピュータ産業を底上げするために、産業界、学界、官界の三十歳プラスマイナス五歳の「若い叡智」を集めようという壮大なものだ。通産省の担当は初代電子政策課長で後に大分県知事に転じて一村一品運動で名を挙げる平松守彦。正式プロジェクト名は「システムズ・アナリスト・ソサエティ(略称SAS)」。SASは後に日本のIT産業の中核となる頭脳を集めて、一九七九年から活動を続け、金成は事務局長をつとめる。
 そんな時代の尖端をいくプロジェクトを通じて築かれた人脈から、金成は土光敏夫臨調会長の応援団としてつくられた「行革推進全国フォーラム」(以下「行革フォーラム」)の末席に連なることになる。一九八二年三月のことだ。(なお「土光臨調」とは、一九八一年、鈴木善幸首相の肝いりでつくられた「第二次臨時行政調査会」のことで、トップに戴いた経団連会長の土光敏夫が大きなリーダーシップを果たしたことから「土光臨調」と呼ばれた。高度成長が行き詰まり、百兆円を超える国債残高など財政赤字が浮き彫りになるなかで、「増税なき財政再建」をスローガンに、十六兆円超の赤字を抱える国鉄をはじめ専売・電電の三公社の整理・民営化などを提案、後の中曽根政権で実現される)。
 この行革フォーラムは、代表世話人に本田宗一郎(ホンダ創立者)、井深大(ソニー創立者)、世話人に磯村英一(元東洋大学学長)、秋山ちえ子(評論家)、黒川光博(虎屋社長・元日本青年会議所会頭)ら錚々たる斯界の巨星をいただき、金成は、土光の秘書の並河信乃、元朝日新聞記者の安藤博とともに常任幹事として事務局を担うことになる。
 土光の経団連名誉会長室で最初の打合せをしたときのやりとりを、金成は今でも印象深く憶えている。当時八十二歳の土光敏夫が本田宗一郎に「君、いくつかね?」と尋ねた。七十二歳と答える本田に土光は「若くていいねえ」。そう言われた本田は嬉しそうに顔を輝かせると、今度は金成と並河に「君たちいくつ?」と尋ねる。ふたりが三十九歳と答えると、本田は、「若い君たちにすべてをまかせるけれど、君たちよりももっと若い連中からも意見をどんどん聞きたまえ」と注文をつけたのである。これで金成と並河はよしやろうと決意した。若さを愛でてそのパワーを存分に引き出す人心収攬術のなんたる見事さ。金成は、戦後の混乱期から日本を再生させた大先輩たちの度量の広さに感銘を受けるとともに、自分たちもいずれこんな年寄りになりたいものだと感じ入ったのだった。
(文中敬称略)







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