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評者◆前田和男
第60回 「社会党をつぶしたA級戦犯」の濡れ衣
No.2946 ・ 2009年12月19日
さて、河野は立法政策マンとして醍醐味も味わったが、つらい目にもあわされた。村山委員長の下で事実上社会党をつぶしたのは秘書官の河野ではないかといわれることだ。
すなわち、村山首相が九四年七月二〇日の衆議院本会議で、「自衛隊は合憲」「日米安保条約を堅持」「君が代・日の丸を容認」と、それまでの社会党の基本政策と一八〇度違う答弁をし、さらにその一〇カ月後の九五年五月に村山委員長の下で開かれた臨時党大会で、党の基本政策自体を、前述の首相の答弁に合わせるように変更、それが日本社会党をつぶした。そのA級戦犯は村山側近の秘書官だった河野であり、だからあいつはスコットランドに逃げたんだ(後述)と曲解する人もいるぐらいだった。 しかし、河野たち村山委員長支持グループは、党大会でこう訴えた。党の基本政策と連立政権政策とは相当程度乖離があって当たり前。両者の乖離はなるべく少ないにこしたことはないし、その乖離を埋める努力はするとしても、これはヨーロッパの社民党でもしばしば体験したことではないかと。 長く続いた自民党の政権を引き継ぐとなれば、間にちょっと社会党政権が入ったぐらいでは変わらない。だから党の基本政策は連立政権政策とは分離して変えないままでいく。しかし、この河野たちの提案は、党大会で数票差で敗ける。敗けて連立政権政策に党の基本政策を合わせる修正案が通ってしまった。 河野からすると、基本政策を変えたことで「護憲平和」という党のアイデンティティを喪くしてしまった。ここに社会党の壊滅的衰退の基本的な原因がある。したがって戦犯は河野たちではなく、むしろ基本政策を連立政権政策に合わせて修正したグループにあるというのである。 そうはいっても、連立政権政策と党の基本政策とのすりあわせの順番を逆にし、しかも一〇カ月も放置した手続き的なミスは大きいといわなければならない。それが党内に混乱とわだかまりを残すことにもなったことを村山自身も反省している。 「結論を出した後から党が追認するという格好やしね。国民的議論が全然ないままやったからね、相当誤解を与えたり、不信を与えたりした面があったと思う。それがいちばん残念じゃね」(前掲『そうじゃのう』) さらにいえば、後に(村山退陣後の九六年一月末)社会党は社民党と党名を変えるが、そこで基本政策を元へ戻す。この揺り戻しとブレが社会党の「後継」である社民党の落日を決定づけたといえよう。 ●民主党へは行かず 村山が首相を辞任した後、社会党はそのまま政権にとどまり、一九九八年に連立を解消する。その間に党名を社民党へ変更、そのなかで大分裂が起き、多くの仲間が「新党運動」を標榜して、九六年九月、日本初の小選挙区選挙を前にあわただしく結党された民主党へ参加した。しかし、村山首相の辞任とともに社会党書記局政策審議会に戻った河野は、民主党には行かず、二〇〇二年まで社民党にとどまって定年退職する。 民主党へ行く気がさらさらなかったのは、細川連立政権時代から、小沢一郎と市川雄一の「一一ライン」にどれほど村山周辺がいびられたか、そして民主党へ行こうと旗をふった仲間たちがいかに「一一ライン」の息がかかっていたかを、身にしみて知っていたからだ。後でわかったことだが、小沢一郎が社会党に相当手を突っ込んで社会党の「分断」と「分裂」を画策していた。それも許せなかった。 それでも立法政策マンとすれば、細川政権~自社さ政権のときのように、政権に参加できる政党に籍をおいていればこそ自分の出番が出てくるとは考えなかったのか。社民党に残っているよりも、民主党に移ればそういうチャンスが出てくる。 しかし、河野にとっては、なんでもいいから政策をつくれればいいというわけではなかった。村山内閣でその思いをいっそう強くしたが、河野の念頭には日本国憲法、特に九条に合わせて国際法のありかたを長期的に変えていきたいという思いがあった。日本国憲法が世界からいじめられないように、アメリカからいじめられないように、大事にされるように、国際社会の秩序を日本国憲法に歩み寄らせたい。そのための努力を日本政府ももっとすべきだという思いがあった。 それに近い発想を持っているのは、党内では村山富市であり、土井たか子だった。彼らは民主党参加の動きには応じず、断固として社民党を守ろうとした。「はぐれ烏」を自認していた河野を使ってくれた村山に恩義も感じていた。それで河野は社会党に、そしてその後継である社民党に殉じることにしたのだった。(文中敬称略) (ノンフィクション作家) |
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