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評者◆前田和男
第59回 立法政策マンとして初めて味わう醍醐味
No.2945 ・ 2009年12月12日




 では、河野が政策マンそして改造後は秘書官として支えた村山政権とは何であったのか。村山政権の評価は、全般的にはいまもって芳しくない。「せっかく制度疲労が顕著になった五五年体制を瓦解させたのに、それを元に戻し、自民党を救ってしまった」というものだ。これは村山自身も認めている。(前掲の岡野加穂留・藤本一美編著『村山政権とデモクラシーの危機』)
 「自民党はもう少し野党として五年ぐらい続いたら分裂していたかもしれない。(略)ですからね、社会党が自民党に手を貸したという批判があるのはあながち否定しません。しかし、あのときの政局の収拾からいって、あの方法しかなかった。(略)考えはちょっと甘いかもしれないけれど、全く異質なものが連立政権を作ることによって、真剣な議論をすることで野党の経験しか知らない社会党も変わるんじゃないかという期待があった。同時に自民党も変わるんじゃないかと」
 では、河野自身は自らもかかわった五六一日間の村山政権をどう総括するのだろうか。
 政権参加からさらに一歩踏み込んで内閣をつくれたことについて、立法政策マンとして「永遠の三分の一」の野党サイドでやっているときよりは、政権の中で仕事ができたことはなによりの喜びだったという。
 それ以前、万年野党に甘んじている時代が長く、政策マンとして欲求不満がうっせきしていた。もちろん野党にありながらいくつか具現化にこぎつけた政策もある。たとえばゴミの分別収集関連の廃棄物処理法改正だ。これは自治労の現業局や公営企業局と組みながら、土日返上で、裏方として厚生省と作業した。また一九七〇年には、公害対策基本法改正案など多くの公害対策関連法が成立したが、河野がドラフトを書いた全野党共同提案の環境保全基本法案が、公害対策基本法に敗れはしたものの、環境庁の創設(一九七一年)と環境基本法への全面改定(一九九三年)につながった。
 それだけに細川政権の誕生で与党になれるというときから、大臣一人でもとれるチャンスがあるならばいつでも突っ込むべきだ、期待を裏切ることになるかもしれないが、それを恐れてはならないというのが河野の基本的な考え方だった。
 村山政権下では、いきなり阪神淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件と歴史的大事件が続発、その対応に追われ、マスコミの批判も手伝って、その不手際ばかりが国民の注目をあびたが、河野からすると、後から考えると非常に意味がある、地味だが政策的成果がたくさんあったと評価する。
 村山政権に批判が多い中で、そうした河野の総括を留保つきで評価する意見もある。岡野は前掲書で、「たとえ(村山自身がいう)\"降って湧いたような\"政権であったにしても、半世紀にわたる野党第一党として“護憲平和主義\"と“民権主義\"の立場から相応の政策を展開できる潜在性をそれ自体の中にもっていた」とし、その潜在性の現われとして「被爆者援護法」(九四年一二月成立)、「水俣病の決着」(九五年一月)」、「地方分権推進法」(九五年五月成立)を挙げている(三つの事例のうち始めの二つは、河野の担当であった)。さらに、岡野は、村山政権では成立しなかったが、村山政権で発案され、社会党も引き続き参加した橋本政権で成立したものとして、「男女共同参画法制定」の動きと、「NPO法案」の推進を挙げている。そして、前者は「ジェンダー後進国・日本」の離陸の条件が用意されたものであり、後者も同じ文脈にあるとして、前者は堂本暁子、後者は辻元清美の二人の女性議員が法案化の中心的役割を担ったと評価している。
 河野も、村山内閣の成果といわれたら、地味だが市民活動を促すための「NPO法案」制定を真っ先に挙げたいという。また、社会党の潜在力として女性パワーも高く評価する。すなわち、河野が「見識豊か」で「仕事を一緒にした」という実感がある先輩の女性だけでも、糸久八重子、金子みつ、久保田真苗、竹村泰子、田中寿美子、土井たか子、堂本暁子、外口玉子、藤原道子らがおり、彼女たちに共通するのは「政局ではなく政策」すなわち「救いを求める人々の抱える問題解決」に取り組む生活現実派。その「現実」感覚が憲法「理念」と結びついたところに社会党のパワーの源泉のひとつがあった、と河野はいう。

●村山内閣は「自社協働の護憲内閣」だった
 そして、今から振り返ると、何よりも評価されるべきは、村山内閣は「自社協働の護憲内閣」だったという点ではないか。それは護憲平和の社会党の委員長が首相になったからという単純な意味合いではない。村山内閣の数少ない評価として「護憲平和主義」を挙げる識者はいるが、河野の指摘はそれとは位相が異なる。「自社協働」の護憲主義にポイントがある。
 これは、後に河野が「今週の憲法」(村山社会党と組んだ自民党内の護憲的勢力が弱化・後退するなか自民党改憲派に押されて衆参両院に「憲法調査会」が設置されるが、これに対抗しようという河野の強い働きかけで創刊された)の編集長となり、そこで「憲法制定議会」の議事録を精読するなかで認識を深めたものだ。
 すなわち、一九四六年(昭和二一年)、芦田均(後に民主党総裁、首相。一九五五年、民主党は自由党と合同して自由民主党となる)が衆議院憲法改正委員会の委員長を務めた「憲法制定議会」は、二月から八ヶ月をかけて、米軍指導下で作成された憲法政府案を自社協働で叩き直し、衆参両院で補強修正する。芦田自身が衆院本会議(八月二十四日)に当該委員長として報告するが、第九条の衆院修正は「戦争放棄・軍備撤退を決意するに至った動機が、もっぱら人類の和協・世界平和の念願に出発する趣旨をあきらかにせんとした。九条の精神は人類進歩の過程において明らかに一新時期を画するものであり、我々がこれを中外に宣言するにあたり、日本国民が他の列強に先駆けて、正義と秩序を基調とする平和の世界を創造する熱意あることを的確に表明せんとする趣旨」から、原案を補強したものだった。
 こうして生まれたのが現在の日本国憲法である。事実上の自社合作であるからこそ、憲法九条を胸を張って世界に宣言できた。その後、冷戦構造下で米国の対日方針が変化し、日本の憲法政治は「挫折」の連続。九条は「鬼っ子」扱いされはじめるが、それでも日本国憲法の精神が光る場面があった。その中でもひときわ輝きをみせたのが、古くは吉田総理による米国の再軍備要請拒否であり、近くは村山内閣における「戦後五〇年の首相談話」であった。
 こうした現行憲法制定勢力ないし護憲的な勢力の文脈の中に、村山内閣を積極的に位置づけるべきでないか――と河野はいうのである。これはとても興味ぶかい指摘だが、当時もそれ以降もそう報道し評価したマスコミはまったくない、またそう問題提起をする学者・研究者も私の知る限りいない。
(文中敬称略)







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