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評者◆前田和男
第57回 「はぐれ烏」が首相首席秘書官に
No.2943 ・ 2009年11月28日




 高木郁朗の連載でも何度か紹介したが、つねに社会党は左右の対立を抱えており、後に参議院本会議で、小選挙区制の導入をめぐって青票(反対)を投じて「青票三人組」と呼ばれる最左派の矢田部理、野田哲、志苫裕らの動きがあり、党は分裂の危機にあった。そんななかで九三年九月の第六十回党大会で委員長をふくむ役員選挙が日程にのぼっていた。一九九三年七月の総選挙敗北後、細川連立内閣に「選挙制度改革大臣」として入閣、小選挙区制導入の旗振り役を果たした山花貞夫委員長の再任では左派は納得しない。ここは左派だけれども右派にも受け入れられる村山しかないと河野は思った。そこで親しい土井たか子周辺に探りをいれたところ、すでに渡辺嘉蔵が準備工作をしているといわれ、それを手伝うようにと勧められた。渡辺は岐阜選出の衆議院議員で党の総務局長。後に村山内閣で官房副長官になる男である。
この経緯については、村山自身が回顧録『そうじゃのう』でこう述べている。

「僕が党の委員長にかつがれたときも、左右でいつ分裂するか、割れるかという動きの中で、何とか統一して、党の結束を固めてリーダーシップをとってもらうためにはあなた以外にないというのでかつがれたんじゃ。どっちかというと左のほうからかつがれた格好やな」

 一時、旭川市長から衆議院議員に転じて五期めの五十嵐広三が委員長候補に擬せられたが、出身の北海道本部が難色を示し、また五十嵐自身が村山擁立に動いたこともあって、大勢は決まった。
 河野は「村山選対」の一員となって実務を担う。渡辺嘉蔵の『渡辺嘉蔵政治日記』(以下『日記』)の九三年九月一九日には、「日曜日なるも、選対本部につめて加藤(万吉)事務局長とがんばる。そして中執機構案をつくる。河野書記・渡辺博氏ら協力」と記されている。
ちなみに渡辺の『日記』によると、「村山委員長をつくるメンバー(村山選対)」の構成は以下のとおりであった。(本部書記は含まず)

本部長‥山口鶴男、副本部長‥野坂浩賢、竹之内猛、大出俊、中西績介、井上普方、穐山篤、事務局長‥加藤万吉、同総務兼補佐‥渡辺嘉蔵、事務局次長‥秋葉忠利、三野優美、北沢清功、前島秀行、小森龍邦、早川勝、佐々木秀典、沢藤礼次郎、坂上富男、山下八洲夫

 元立命館大学全共闘で僧侶で参議院議員という異色の経歴の翫正敏が名乗りを上げたが、所詮勝負にならず、九三年九月二〇日、村山が委員長に圧倒的な票で選出された。

●「はぐれ烏」が首相首席秘書官に

 そして、戦後政治史、いや明治以降の憲政史においても「珍にして奇なる未曾有の出来事」が起きる。
 九三年七月、細川護煕を首班にいただく非自民連合政権に社会党も参加するが、一年足らずで相対多数派にもかかわらず(いやそうだったからゆえに)社会党は「仲間外れ」にされる。工作者は新生党の小沢一郎と公明党の市川雄一の「一一ライン」とされるが、この不和を自民党はすかさずつき、九四年六月二九日、社会党の党首・村山富市を首相にかつぐという奇策によってわずか一年たらずで政権を奪還するのである。一九五五年以来不倶戴天の「敵」同士が手を結んだことに国民は驚いた。
 この奇襲作戦の仕掛け人は自民党総裁の河野洋平とさきがけ代表の武村正義といわれるが、社会党サイドでこれに呼応したのは、山口鶴男と野坂浩賢ら前掲の村山委員長擁立で動いた人たちとほぼ同じだったといわれる。これに加わったのが、村山に委員長候補を譲った五十嵐広三で、その「論功行賞」もあって五十嵐は、内閣の要である官房長官となる。
 はぐれ烏書記の河野は、この奇策の仕掛けには加わらなかったが、事前に情報は得ていた。それは五十嵐からで、五十嵐は河野を呼んでこう告げたという。
 「耳に入っていると思うが、村山さんで行く」。「え! そりゃ、ちょっと無理じゃないですか」と河野が疑念を返すと、五十嵐は、「きみが心配するのは、村山の答弁とかだろうが、大丈夫、総理というのは細かいところで勝負するのではない。細かいところは全部役人が助けてくれる。きみたちが助けていたよりももっと手厚い。おれは(旭川)市長をやっていたからよくわかる。おれの市長経験を照らしてあの男ならいける」。そういった上で、村山首相のサポートを頼まれたが、この時点では首相秘書官への依頼はなかった。
 九五年八月九日、村山は内閣改造を行う。それにともなって「首相首席秘書官」の交代が課題となる。この工作に動いたのは前出の村山委員長擁立の仕掛け人、渡辺嘉蔵であった。渡辺の『日記』によれば、河野に決まるまでは相当な曲折があった、というより河野に決まったのが「奇跡的」であったことがわかる。

九五年八月九日(村山内閣改造の当日)
「(一五時)久保(亘)書記長と打ち合わせ、「渡辺鋭氣中執を首相首席秘書官に」と話すも、「彼は一〇〇%受けまい」という。一八時、渡辺鋭氣中執を呼んで話す。「久保書記長が入閣しない。私が入るわけにはいかない」とやはり拒絶したり。(一九時三〇分)総理公邸で野坂官房長官と村山総理に会って話す。首相首席秘書官の園田氏を代えよとは言われないが、余が発意で代えると申し上げる」
八月一〇日
「一六時、党本部で田中正社会政策部長・浜谷政審事務局長・山口総務部長と話しあう。首相首席秘書官に田中氏をという余に、田中氏は河野氏を推す」
八月一一日
「山口鶴男先生より電話。「園田秘書官を動かす要なからん」と言えり。話だけは聞いたが反論せず。先輩は人がよい。裏に動いた左バネの顔が数個、頭に浮ぶ。しかし余は肚を決めた。首相首席秘書官は河野道夫氏とする。党官僚(書記)らの利口ぶり、派閥感覚には辟易なり。今こそ一丸となるべき時にこの連中が党を悪くしているのだ。この際、河野氏にする。彼にも欠点あり。されど信義なき屁理屈屋よりはましなり。一〇時、河野氏を呼んで頼む。彼は一考の上快諾したり。村山総理の返事いつまでもなし。一一時三〇分、電話を入れる。「河野が可なり」と意見を述べる。村山総理は「官邸に来たれ」という。一二時一一分から一〇分話し合って首席秘書官は、河野氏と確定する」

 渡辺は前任の園田についてバックに「左バネ」が働いていると記し、それを園田を代えなければならない要因としている。渡辺のいう「左バネ」とは党内最左派の社会主義協会(連載三四回を参照)のことである。園田はこの社会主義協会に属すベテラン書記で、左から村山を壟断しているという危惧から、渡辺は派閥に属していない河野を「次善の人材」として推挙することにしたと思われる。であれば、書記局内出世においてはマイナスでしかない河野の一貫した「はぐれ烏」ぶりが反転してプラスに働いたといえる。
 いっぽう立法政策マンとして社会保障畑で仕事をしてきた河野からすると、村山もまた一野党議員として社会労働委員会という地味なところで活動をし、河野はそれに寄り添う形で質疑質問・政策提言のサポートをしてきた。その意味では、村山とは長年仕事を通じて培ってきた信頼関係があるという自負があった。たしかに渡辺の推挙もあったが、これが最終的にはきいたのであろう。
(文中敬称略)







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