書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆前田和男
第56回 河野道夫氏の巻 「仏教社会主義者」の「はぐれ烏」として
No.2942 ・ 2009年11月21日




 今回からは、高木郁朗や仲井富とは異なる立場で社会党にかかわった一人の人物の証言を通して、「政権再編・交代と社会党」、とりわけ「村山自社さ政権」について検証を深める。
 その人物とは、村山内閣で首相首席秘書官をつとめた河野道夫。政治に関わるには少々毛色の変わった経歴の持ち主である。一九四二年東京生れの河野は、高校時代は学業そっちのけで、北鎌倉は臨済宗の名刹・円覚寺の居侍林へ通っては座禅をくみ、大学には行かず出家しようかと思いつめるいっぽうで、高三のときは六〇年安保闘争の渦中にあって毎日のようにデモに参加していた。
 今でいう「自分探し」をしながら悩める青春を送り、三年おくれで「政治学」を勉強してみようと早稲田大学第一政経学部に入学。早稲田は学生運動の拠点校で諸セクトから勧誘をうけたが、キャンパスでは学生運動にかかわらず、居住地の世田谷で社会党系のベトナム反戦の映画上映と討論会に参加。それが社会党にかかわるきっかけだった。
 地元では、家庭の事情で大学へ行けなかった中卒・高卒の労働者たちと交流もでき、抽象的議論に明け暮れる大学よりも河野の肌にあった。当時の世田谷社会党は「右」の構造改革派から「左」の毛沢東派まで多士済々、これも河野には魅力的だった。たとえば、牛乳配達による消費者運動を展開、後に生活クラブ生協と生活者ネットワークを立ち上げる岩根邦雄一家、河野兄弟の牛乳配達運動の拠点が近所にあり、刺激をうけて交流を深めたが、彼らの所属する社会党構造改革派(江田三郎グループ)には入らなかった。また、他のグループとも付き合ったが、どこにも属さない独立独歩の「仏教社会主義者」の「はぐれ烏」を貫いた。
 やがて親の支援をうけたモラトリアムが過ぎ「就職」を考えなければならない時期がやってきた。早稲田の政経出身の多くが行きたがるジャーナリズムはまっぴらだった。「仏教社会主義者」として「華やかな表街道は歩かない。下積みでありたい」と思った。そして、社会党世田谷区会議員共通の「靴磨き」になろうと決めた。よろず雑用の下働きである。高卒の初任給がまだ二万円にならないころで、「俸給」は各議員が毎月千円出したとして月に一万二、三千円。父親に告げると「そんな靴磨きをさせるために大学にいかせたわけじゃない、家を出ていけ」と言われた。友達の下宿に転がり込んで頭を冷やしてから、父親と談判。話がすむまでは飯を食わない覚悟で一二時間も話し合った末に「合意」をみた。明治生まれの一徹親父は「そこまで(社会党の靴磨きに)こだわるのなら、せめて世田谷でなく社会党中央の政策審議会に行け。それだったら見逃そう」と歩み寄ったのだ。政審は政策を立案するところ。せっかく大学に入った息子も、そこなら学問を生かせるだろうという親心だったのだろう。さらに、河野の両親は社会党重鎮の鈴木茂三郎夫婦と親しくしていたこともあってか、老後そろって社会党の党員になった。それも息子の社会党就職を認める背景にはあったと思われる。
 親の許しをえた河野は、毛沢東派の総支部委員長の「推薦」をもらって、六八年に社会党本部に書記として「就職」。希望どおり政策審議会に配属され、「研修見習」をへて同年秋頃に社会保障担当となる。
 当時社会党の「頭脳」である政策審議会には二〇~二五名がおり、そのほとんどが社会党内の派閥・セクト経由で、それが就職の方便であってもその後はどこかの派閥・グループに身をおく人がほとんどであった。しかし、河野は「はぐれ烏の仏教社会主義者」という信条にもとづいて、世田谷時代のままに、どの派閥・グループにも属すことなく、以後二〇〇二年の定年まで三四年、仕事本位の「一立法政策マン」を貫きとおす。
 そんな社会党書記局では「稀少種」の河野だったからこそ、後述するように、社会党が政権交代と政界再編に噛むという栄光と挫折のなかで重要な仕事をすることになるのである。

●村山委員長擁立劇の選対実務を担う
 河野にとって、もっとも思い出深いのは、やはり村山首相の首席秘書官となって官邸へはいったことである。河野が社会党本部に入って二一年目の五三歳のときだった。
 首相官邸には国会議員のバッジをつけた政治家はわずか三人しかいない。首相、官房長官と副官房長官である。総理には五人の秘書官が張り付くが、旧称でいうと大蔵、外務、通産、警察の四省庁から送り込まれる四人の官僚と総理枠の一人。霞ヶ関から名うての「お目付け」がつくわけで、それゆえ首相は官僚のいいなりにされると言われる。総理枠の首席秘書官はそうさせないためのまさに要のポストだ。それに河野が抜擢されたのである。
 当の村山も首相就任をもちかけられたとき「どこの国の話じゃ」と戸惑い、首相を受けてからも「何でこんなところに座ることになったんじゃろう」とつぶやくような「寝耳に水」首相だったが、「書記局内はぐれ烏」を自認する河野がその首相の首席秘書官になるのも、周囲はもちろん河野自身にとっても想定外だった。そして、首相秘書官になることで後に述べるように河野の人生は大きく展開するのだが、そもそもは村山が社会党委員長になったことが「事の始まり」だった。裏返せば村山が委員長になっていなかったら、村山も首相にはなっておらず、河野の社会党人生も「書記局内はぐれ烏」のままであったかもしれない。その村山委員長の実現に向けて「政策」一筋の男が「政策」でなく「政治」にはじめて手を染めたのだという。
 大分県社会党県本部書記上がりの村山は地味な調整役をこつこつとこなし、周囲からかつがれて市会議員・県会議員をへてようやく国会議員にまでなったが、とても中央で委員長になれる「経歴の持ち主」ではなかった。しかし、まさにこの時期の社会党は村山のような敵をつくらない地味な調整役を必要としていたのである。
(文中敬称略)
――つづく







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約