書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆小野沢稔彦
戦争と共にある映画の現実を改めて暴露する――アリ・フォルマン監督『戦場でワルツを』
No.2941 ・ 2009年11月14日




 映画は戦争と共にあり、戦争によってよりその可能性を拡げ、同時に戦争を生み出してきた。映画は、その創生から今日に至るまで戦争を表象し、戦争を補強し続けてきたのだ。そうした戦争と映画との関係の裡から、映画を問うことを通して戦争を問う映画が現われようとしている。
 今日、究極の「戦争国家」としてあるイスラエルが生み出した『戦場でワルツを』(アリ・フォルマン監督)は、映画を問うことを通して――現実の戦争参加者であるフォルマンは、戦争を真実であるかのように再現・実録する戦争昂進映画の虚偽を、自明のこととして受け入れることができない――戦争を問おうとする戦争映画として、あるいは戦争を問うこととは、映画を問うことにならざるをえない、そうした映画としてこの作品を作り上げた。ここでの戦争は、圧倒的な軍事力によって、キリスト教右翼と共に一方的にレバノンのパレスチナ人キャンプ(サブラ・シャティーラ)を爆撃し、そこに生きる総ての民衆虐殺を図ったイスラエル軍実行部隊を形成した、何人かの兵士の今日までもその個人史を規定する戦争の記憶――記憶とは記憶を封印する自意識でもある――の物語なのである。ここで強調しておくことは虐殺者の物語には、殺された者たちの悲劇の実相は絶対的に入ってこないことだ。彼らは「モノ」としての敵を抹殺したのであり、人間と関係を築いたわけではない。侵略戦争とはそういうものだ。そして、視ていないものは描くことができない。だからフォルマンはこの〈私の戦争〉だけを視つめようとする。しかし、国家のための名誉ある戦争とは何か。圧倒的な勝利者である私は、しかし今も不安と動揺と死の恐怖に、なぜ喘いでいるのか。この私の揺れる内面を、彼は描こうと決意する。そしてその記憶の中で、彼は感知している――戦争を表象することの不可能性。私の物語としてここで描かれる映画は戦争映画ではなく、戦争をめぐる映画なのである。
 私の戦争――現実と虚構とが入り交じって構成される――を、これまで作られた映画のように再現することはできないばかりか、そのことによって戦争を描くことなどできない。戦闘シーンをどれ程積み重ねても戦争映画になることはないし、まして戦闘だけが戦争ではない。私の持続する生の時間の全てが戦争なのだから――フォルマンたちは、今も意識的無意識的にサブラ・シャティーラ虐殺を続けている。
 では、戦争の記憶を語る真実のドキュメントこそが必要なのか。しかし、真実として語られる内実はまた、私の虚構としてあるのではないか。記憶を構成する、押し込められた空白の自己史を再構成し現実の裡で問い直すこと。まず真実らしさを疑うこと。フォルマンはそこで、実録でもなくドキュメントでもないアニメーションドキュメンタリーという方法を採用する。あからさまに、この真実は虚構であることを示すこと。こうして戦争映画という表象を批判する、別な映画表象を目指す物語が生れた。しかしこのアニメにおいては、アニメとしても――私たちが日常的に認知している――既成のアニメとは異質のものとして設定される。それは、(1)遠近法をズラし、(2)二四コマ・セル撮影の滑らかさをズラし、(3)日常の風景らしさを演出する色彩の拒否によって、観る者は極めて居心地の良くない時空へと放り出され、その時空(彼の心象)を追体験せざるをえない。フォルマンが現実の戦場で得た、自明の戦争映画によっては自らの内なる心象を表現することはできないという想いは、映画を問い直すことを必然とした。そしてこの極めて特異な、強いインパクトを持つ戦争映画は生れた。
 フォルマンの戦争への問いは、同時に戦争国家イスラエルの内部に生ずる一人一人の「国民」の内面の動揺――「国家」とは何か、そこに生きる私とは何か、という問い――を浮上させ、その結果、戦争国家そのものが大きく内部から揺れつつあることを告知する。だからこそ一方で、イスラエルのパレスチナ民衆の存在そのものを抹殺する戦争は、更にエスカレートする。不安は外へ向って狂暴な暴力を産む。戦争国家イスラエルの赤裸々な現実。そして、この『戦場でワルツを』は、戦争と共にある映画の現実を改めて暴露する。今日の戦争は表面上、シュールレアリスムのように現象する。しかし、シュール性の裡にある現実を暴くためには、映画そのものを問うことによって、映画の戦争を解体しつくす他にないのだ。

 このように映画とは紛れもなく〈危機〉に向き合う方法であったのだが、この日本では建前はどうあれ、情況とは無縁の単なるお遊びでしかなくなっている。この間観た何本かの日本映画から、私は映画の現実のうそ寒さと、文化状況の貧しさを感じざるをえなかった。二本についてだけコメントしておこう。まず一本は井土紀州の最新作『行旅死亡人』である。私はこのテーマと、この作り手の故に強い期待を持って観た。しかし期待は裏切られた。行旅死亡人とは、この社会の裡で明かされぬ理由によって死に至った存在証明なき死者のことなのだが、この現代日本の闇を照らし出す可能性を秘めたテーマを、単なるメロドラマ――それもTVドラマ以下の――に堕さしめてしまったこの映画に接し、ただ呆然とするしかなかった。このテーマを見つけたことはさすがだと思う。しかし、松本清張のパクリ――断っておくが、清張には深く《社会的人間関係》に対する眼がある――にさえならぬ、極めて安易なメロドラマに転化してしまって、そのことをエンターテナーなどという流行語で装ってみせる作り手たちの、映画に向き合う姿勢はあまりに貧困すぎる。
 絶望することさえ奪われてあるこの国で、言葉を拒否された涯に行旅死亡人となった存在証明なき人間の闇の深さに、真っ向から向き合いどこまでも闇に分け入っていく映画をこそ、井土には作ってほしかった。たしかにその掘削作業は、制度的映画としては完結しない作品となってしまう方向を結果するかもしれない。しかしこんな安易なメロドラマを作ることで、日本の闇を暴くことができると思う程には、情況は簡単ではないのだ。清張の方法、すなわち社会的人間関係を視つめる眼こそをまず方法としなければ映画は発進しないだろう。
 思うに、この国の作り手たちはその内部に自分たちの作る映画への内在的批判を生み出すことなく、ただ作ることだけに満足していたのではないか。またこの映画は、ある学校の映画実習から始まったというが、その授業の中では教える者と教えられる者との間に、いかなる関係が成立していたのだろうか。映画以前の貧しい教室風景さえ見えてしまう。これでは学校のPR映画としてもマイナスではなかろうか。好漢井土よ、映画を甘く見てはいけない。
 もう一本『TOCHIKA』(松村浩行監督)。私はこの映画の可能性を大いに評価したいし、注目すべき作品だと思う。戦争を支える施設として作られたトーチカは、戦争を終えた今も、六〇年以上の歴史を、歴史の表面から忘れ去られたままに放置されてある。一見まったくの無用物として。しかし、確かにそれは、この時代に対する異物だ。そして実は、私たちは戦後も今もずっと〈戦争〉を戦ってきたのではないか。私たちの認知する表面上の歴史の底で、異物に照射された闇の中の戦争――それは決して軍事戦ではなく存在を規定する姿なき抑圧体系との戦いである――を戦いながら、照らされぬ闇を生きてきたのではないか。ここでは何も起らない。戦争に特有なアクションはない。あるのはトーチカと男と女と原野のみである。しかし、何も起らない状況の底で、生存を規定する戦争が起っている。北の原野で、男の名づけようのない生の断念の戦いが起っており、女はそれを感知し男に寄りそう。
 私はこの『TOCHIKA』に、無名の存在性の闇の中に起っている現代の戦争を観る。ここには新しい「戦争映画」が生まれつつあるのだ。そしてこの闇は『行旅死亡人』の言葉なき闇と通底するだろう。私はこの作品に大いに注目する。しかし同時に、この映画を一貫する冗長なカット――タレ流し的に長回しすれば歴史が浮上してくるなどと安易に考えるべきではない――と、延々と続く冗漫な「理由」の吐露に、私は退屈し途中で物語の結末までをも予感してしまう。ストーリーを拒否するトーチカという「モノ」――女は、それに目を向け、時代の中に浮上させることで男の戦争を共有するはずだ――は途中から忘れられ、それに執着した女は、ただの観光客になってしまう。女は男の生の焼尽の共犯者であるはずなのに。
 この映画もまた、お仲間会で作った結果として、内部への批判性の欠如と説明の過多によって、トーチカという異物そのものによって語るべき何か、を失ってしまった。更にもう三〇分切る勇気、あるいは自己批評性(六〇分程の中篇であれば大傑作であっただろう)があれば、と思う。または、短編小説か舞台劇に仕立てた方がよりインパクトの強い作品になったのではないかとも思う――映画だけが表現ではない。
 映画は本来、危機と向き合う仕掛けである。しかし、それは今、危機を隠蔽するテクニックと堕している。紛れもなく映画は危機にある。
(プロデューサー)
『戦場でワルツを』は、11月28(土)よりシネスイッチ銀座ほか全国順次ロードショー。







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約