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評者◆秋竜山
江戸時代の声、の巻
No.2940 ・ 2009年11月07日




 江戸時代の人は、どのような声で話をしていたか。今のお年寄りたちの声を聞いても江戸時代の声を感じとることはできない。ところが、私が子供の頃(昭和二十年代)のお年寄り、おじいちゃん、おばあちゃんの声、村人のお年寄り、いや大人たちの声を今、おもい出すと、もしかすると、あれは江戸時代の声ではないかと思えてくるのである。時代は江戸時代ではないにしても、江戸時代をそのままやって生活していたようにも思えるし、当然話し声もそのままであったように思えてくる。田中優子『未来のための江戸学――この国のカタチをどう作るのか』(小学館新書、本体740円)で、〈框と縁〉という項目があり、読んでいると、上がり框から、縁側から縁台から、江戸時代の声が聞こえてきた。もちろん、私は子供である。私の家は上がり框のところに、いろりがあった。茶の間であり、玄関のことを庭といっていて、かなり広い土間になっていた。茶の間との境は上がり框であり、ついたても、ふすまも障子もなかった。近所の人がやってきても家に上がることもなく、上がり框に腰をおろして話した。その声が江戸の人の声のように聞こえた。その時は、そんなことを一度も考えも思ったこともなかったのに、今になって思うと、やたらとなつかしい声であり、現代人の声とまったく異なっているように思えてくる。少年の私は上がり框に腰をおろしている近所の人たちをスケッチしたものだ。だから家へやってきた近所の人たちの後姿ばかり描いていたのである。後ろからだと相手にも気づかれないのがよかった。郵便配達員が昼間の弁当を上がり框で食べるという場所にもなっていた。隣り村からやってくる郵便配達であったから、そのような場所が必要であった。晴れている日はいいが雨降りの時とか、冬の寒い日など、郵便配達員が弁当を食べていた。家に上がることをせず上がり框で、お袋が出したお茶をすすりながら弁当を食べている姿が子供の眼には家族の一員のように親しみをもてた。縁側の想い出としては、ある日、コジキさん(さんづけして呼んだものだ)が年の内、何回か隣り村をまわって村へもやってくる。その、コジキさんの一人が家に立寄り、「縁側をかして下さい」と、いった。お袋がお茶を出したりした。縁側に腰をかけて、お茶などをのんでいたが、その内に袋から小銭を取り出して、数えはじめた。子供の私は障子のかげからのぞいた。それをお袋がみて、「悪いから、のぞいたりするな」と、いった。その縁側で、ひなたぼっこしながらいつも寝そべっていた。居眠りしては夢などみたりしたものであった。
 〈「框」というものはもともと、いろいろな物の外枠の木のことをいうらしい。であるから、玄関の上がり框は、段差があるためにむき出しになっている側面と端とを、木の枠でカバーしたその部分のことをいう。(略)住環境学者の沢田知子は「家に上がる」「お上がりください」という言葉の中に、日本人の境界感覚を見た。家には入るのではなく、上がるのである。〉(本書より)
 そういえば、庭で「寄っていきなよ」という。上がり框でのむお茶も特別おいしいものである。







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