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評者◆小野沢稔彦
細密なアレゴリーに満ちた細部描写の中に隠された「神」を視つけ出す――イエジー・スコリモフスキ監督『アンナと過ごした4日間』、タル・ベーラ監督『倫敦から来た男』
倫敦(ロンドン)から来た男
ジョルジュ・シムノン著/長島良三訳
No.2939 ・ 2009年10月31日




 矛盾と曖昧さにあふれた映像の多義性によって語ること。そのことは、作家が一方的に語るのではなく、観客がそれぞれの位相でその多義性の中から、自らの物語を模索し紡ぐことで、私にとっての映画を生成することになるだろう。そして私たちは、細密なアレゴリーに満ちた細部描写の中に隠された「神」を視つけ出す。現在の日本映画からは消えてしまった、映画が本来的に持つこうした映画性を内包する、ポーランド映画とハンガリー映画に出会った。これまでもこれらの国は、深い内実を秘めた作品を産む映画王国として、先鋭で個性的な前衛映画を世界に送り続けてきたが、今秋公開される二本も映画でしか表現できない世界を鮮烈に開示している。
 一本は、ポーランド映画『アンナと過ごした4日間』(イエジー・スコリモフスキ監督)である。この映画は、世人から無視されたような男と女との間に成立した、視ること=視られることという関係性を媒介とする、極限化された愛の関係性の中に、無垢な人間存在の至高性を描く、極めて特異な作品である。ここに描かれる「愛」は、余人は関知しえぬ男女二人だけの精神の至純性の愛である。この愛は、社会に向かっては絶対的に断絶し、社会からは疎外され忌避されるものである。男は女を眠らせ、その部屋に侵入し、女をじっと視つめる。そして、例えばペディキュアを塗る。こうして四夜を過ごした。それだけのこと。そして不様に捕まった。確かに、この関係性は特異で異様、時に残酷であり、社会から理解されぬ「異常愛」である。それ故、至純の愛なのだ。
 一方、この人物たちを取り囲む世界は、長い歴史的時間を停滞したままにあり、その日常性の裡に様々なアレゴリー――例えば、病院の中の断片化された人間の手とその焼却など――を秘めた、不可解な心象イメージ――例えば、川に流れる牛の死体など――が満ちる世界であり、同時にレイプなどが日常化した、危機を内包する社会なのである。ここは、どこにでも見られるポーランドの平凡な小都市なのだが、その風景は人々の生を拒絶するかのように街を覆い、その心象を規定してもいる。このように、本作は一種の風景論映画でもあるのだ。ここでは極めて特異な男女の聖なる世界と、何も起こらないかに見える俗なる社会とが、荒涼とした風景の裡に向き合い、両者はまったく関係ないように見えながら、相互に侵犯しつつ、曖昧で不可思議な現実を形成している。そして、この光景の中でくり展げられる視る男と視られる女との至純の愛の物語は、だから愛の物語としてだけでなく、様々に読み解くことを可能にする物語なのである。社会から無視された極めて矮小で私的で特異な愛の物語は、象徴的なアレゴリーに満ちた社会的関係性の物語としても進行する。カラー映画であるが、全篇モノトーンのような色彩――女との夜を過ごした早朝の陽の出の一瞬の光に照らされる街の1カットのみは鮮やかな色を持つ――が醸す、なんともやりきれない雰囲気の中で、出口のない社会と愛の物語は溶けあって、不可思議な人間のあり様、悲劇の愛を語る。そして映画のラストシーン――不条理な裁判と女との別離の後に全てを受け入れ、私的な想いの一切を放棄した男が刑期を終え、男の原点である場にもどった時、そこには二人の関係性の憶い出を含む全てと、世界を断絶するかのように「壁」が築かれていた。その壁のある風景は男の心象風景かもしれない、と同時に多様なアレゴリーとしてある曖昧模糊とした、この物語の風景の中へと、男と私たちを、再び呼び還すのである。無垢であることは、無罪であることではない。
 一方、ハンガリー映画の鬼才タル・ベーラ監督作品『倫敦から来た男』は、ベーラ映画に魅かれ続けた者には、改めて彼の映画の魅力を再発見させるものとしてあり、初めてその作品に接する者には、その映画世界の奥深さと人間への透徹した眼を知らしめることによって、ベーラという類まれな映画作家を発見させることになるだろう。『倫敦から来た男』は傑作である。研ぎ澄まされた映像世界が紡ぎ出す、映画でしか表現しようのない独自な映像美。計算されつくしたカメラワーク。そこに展開される生を拒絶したかのような死の街の光景(西欧世界のアレゴリー)。幾重にも積み重なって提出される細部描写の見事さ。その曖昧な時空が形成する奥深いアレゴリー性。自らの生からさえ見放されたように、幽閉された時間を生きるしかないこの物語の人々。同時に、意識することなくその生の根拠から拒絶され、ディアスポラな生を強いられた物語の中の人々。彼らは、私たちなのだ。人間存在そのものの根拠と、その危うさを深く問いつめ、現実と幻想の狭間に生成する迷宮の映画として本作品はある。
 物語は実にシンプルである。境界(全ゆる意味で、この作品は境界性の映画である)の港の鉄道管理塔で夜勤を行う男は、ある夜、港に着いた船からカバンが投げられるのを目撃する(この映画は、視る男の物語であり、同時に視られる男の物語である)。倫敦からカバンを運んできた二人の男。そのことを契機に二件の殺人事件が起こる。やがて倫敦から刑事がやって来て、事件は簡単に解決される。ストーリーはこれだけのことだ。ここには暗黒映画の特質と考えられる痛快なアクションはないし――殺人シーンなど描かれない――、追う者と追われる者のサスペンスも、胸のすく謎解きもない。事件に関するストーリーは、あからさまに総てが明白であり、何らの盛り上がりもハラハラさせる緊張感もない。ここには、自明とされる映画らしさは端からない。しかし紛れもなく、この映画が具える映画性――深いサスペンス性と人間存在への問いと、心象のアクションとがある――によって、例えば犯罪小説『罪と罰』と通底する異様に緊張を強いられるフィルム世界に、私たちは立ち会うことになる。
 全篇長回しで構成されるこのサスペンス映画は、まずファーストカット(実に12分50秒)の圧倒的な力によって――観る者を誘引するカメラワーク――、この映画のストーリー性の全てと、人物とその心象、そして港という場と列車と、流動を強いられた者たちといった、殺人事件を構成する、この世界そのものが観る者の眼前に提出される。そこに展がるのは、人間存在の不確かさと世界の闇であり、このようなシーンが次々と提出されるのだ。そしてまた、細部(転轍機や波)や、背景(街や海辺の断崖)の象徴性はもとより、音や音楽の全てが、この曖昧で不確かな世界を浮上させる。またショットの反復も多用され、その内実の小さな変容は人々の心象風景の微妙な変化を映し出す。更に、動きを止めたショットの余白でくり展げられる、ストーリーとは関係ない偶然の(勿論、仕組まれた)人間行動が生み出す――例えば、カフェでの中心人物たちの核心的応答の後に、老マスターと老娼婦との間に交わされるエロチックな交感や、そのカフェでの芸人たちのあり様、更に男の娘が勤めていた食料品店でのいざこざの後に、男性店員が肉の塊を切り続ける状景など――、深いアレゴリー性に満ちた演出に、ベーラの人間への問いの映画的運動性を見ることができる。このように『倫敦から来た男』は、その細部にこそ「神」が宿っており、映画が本来持つ多義的可能性を秘めた作品なのである。そしてこの国の、オママゴト映画しか知らぬ観客に、映画の奥深さを挑戦的に開示するだろう。
 いずれにしても、タル・ベーラとイエジー・スコリモフスキの映画は、極度に省略された台詞、空間概念を混乱させるカメラワークと構成された画面の力、計算されつくした音響、そして役者たちの圧倒的存在感などの総合力によって、映画でしか表象しようのない映画世界を成立させている。

プロデューサー
境界の映画映画の境界
『アンナと過ごした4日間』は、渋谷シアター・イメージフォーラムにて公開他、全国順次公開。Alfama Films,Skopia Films 公式HP=www.anna4.com
『倫敦から来た男』は、12月上旬、渋谷シアター・イメージフォーラム他全国順次ロードショー。







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