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評者◆斎藤貴男
「コルシカ」事件が示す、ジャーナリズムの構造の大転換――創作者の営みと尊厳が、こうも軽んじられてよいのか
No.2939 ・ 2009年10月31日




 出版社に無断で雑誌をスキャンし、ネットで閲覧できるようにした〝ビジネス〟が、わずか二日間で一部中止になった。IT会社エニグモ(須田将啓社長、東京都渋谷区)が十月七日に開始した有料サイトのことである。
 「コルシカ」と称する同〝ビジネス〟は、〈いつでも雑誌コンテンツにアクセスできる〉〈気に入ったページを「スクラップ」することで、自由に雑誌コンテンツを整理できるため、自分の興味の高いカテゴリーごとの閲覧が可能になります〉(同社HPより)という内容。出版社側の許諾を得て同種のサービスを展開している他の情報サービス会社とは決定的に異なる。「明らかな著作権侵害」だとする日本雑誌協会の抗議を受けたエニグモが九日、雑協加盟社の雑誌についてのみ、その要請に応じた。
 なぜか新聞はまったく、あるいはごく小さくしか報じていない。マスコミ業界の外では事実関係もあまり知られていないに違いないが、この事件はいずれ大事に発展する。筆者は恐るべき近未来への予兆さえ感じている。
 この〝ビジネス〟は悪質なパクリ以外の何物でもない。他人のフンドシで相撲を取る、卑しすぎる行為だ。
 だからこそ会社側も雑協の抗議の前に引き下がった形だが、こんなやり方が商売になると思いつく者が存在し、短期間とはいえ実行されてしまった事実は残る。各出版社の編集者、個々の記事を書いたライターたち。雑誌だけではない。筆者自身を含めて、個人一人ひとりが命ぎりぎり、何物かを創り出している営みが、尊厳が、こうも軽んじられてよいのだろうか。
 エニグモなる会社がオレオレ詐欺の類だったらまだしも救われる。聞けば〈インパクトのある新しいビジネスの創造を通して社会に活力と楽しさを提供する〉を経営理念に、大手の書店チェーンと組んだWEB連動フェアを仕掛けるなど、それなりの実績もあるらしい。
 にもかかわらず、当初は「コルシカ」で〈雑誌需要をより喚起させ、雑誌市場を盛り上げることに貢献できれば、雑誌にかかわるすべての人にメリットがある〉(HPより)などと謳っていた。IT技術の進展を背景にした厚顔は言うまでもなく、あの「グーグル・ブック検索サービス」に範を採っている。
 本紙の読者には釈迦に説法なので解説は省略。エニグモの首脳陣とは面識もないので断定はできないが、彼らが何らかの理由で著作権の概念か、編集者やライターという職業によほどの憎悪を燃やしているのでもない限り、グーグル式の発想がすでに特殊ではなくなりつつあるということであるらしい。
 エニグモのHPは「コンテンツ」の用語を繰り返していた。なるほど、この近ごろ流行りの表現を導いた価値観が優先されるのであれば、「ブック検索」のシステムを、より多くの関係者が携わり、本来はより複雑でややこしい著作権が発生する雑誌にまで拡大した新手の〝ビジネス〟の登場も、自然の成り行きではあるのだろう。
 英語のcontentsの直訳は「内容」だ。日本では近年、特にマスメディアによって提供される記事や番組の中身を指す場面が増えてきた。作家や監督の個人的な情念から産み出された「作品」も、一九八〇年代あたりから「ソフト」などと言い換えられ始めたかと思えば、ついには「コンテンツ」に。
 「コンテンツ」が常用される世界に創作者への敬意はない。〝ビジネス〟の論理が絶対無二の意義として語られる。
 新聞の衰退を論じた、次のような文章が好例だ。従来は一本一本の記事の取材も執筆も編集された紙面も、完成した新聞を読者に届ける機能も、つまり「コンテンツ」から「コンテナ」(容器)、「コンベヤ」(配達システム)に至るまでを同じ企業グループ内の垂直統合モデルが担っていたが、今日では水平分散モデルに移行してきたとして、〈ところがいまや新聞記事はインターネットでも読めてしまう。たとえば毎日新聞や時事通信の記事はヤフーニュース上で読めるから、さっきの三層モデルでいうとこう変わってしまっている。
 コンテンツ=新聞記事
 コンテナ=ヤフーニュース
 コンベヤ=インターネット〉〈垂直統合がバラバラに分解して、新聞社やテレビ局は、単なるコンテンツ提供事業者でしかなくなった。(中略)もちろんコンテンツの重要性が失われるわけではない。良い記事、良い番組コンテンツはこれからも見られ続けるけれども、そのコントロールを握るのはいまやコンテナの側にシフトしはじめているのだ〉云々。
 ITジャーナリスト・佐々木俊尚氏の『2011年 新聞・テレビ消滅』(文春新書、二〇〇九年)からの引用だが、ある種の典型を示したまでで他意はない。一面の真実ではあるにせよ、広告論やマーケティング論ではなく、ジャーナリズムのあり方にも言及するマスメディア経営論として綴られ、実際にもそう読まれている現実に問題がある。
 要は、ジャーナリズムにおける主役は何者なのか。主として誰の、どのような仕事への見返りとして対価が支払われるのか――。
 対価とは具体的には販売と広告による収入を指している。いわゆるマスコミ四媒体でもテレビとラジオは視聴者やリスナーにストレートに伝えられる点で新聞、雑誌とは異なるが、いずれにせよ広告のスポンサーがオールマイティか、それに準じる立場になりがちなのは同じだ。
 主役は明らかに移ろい始めた。ジャーナリズムの構造そのものの大転換に、昨年秋のリーマン・ショック以降の世界的な不況が拍車をかけている。
 主役の座をヤフーやグーグルやエニグマのような〝ビジネス〟に奪われつつあるマスメディアは、当然、単なるコンテンツ提供事業者に甘んじていたくない。そこまではよいとして、彼らはなんと、「コンテンツ」それ自体を〝カネの成る木〟に変質させ始めてしまった。
 たとえば共同通信と全国地方新聞社連合会と電通と最高裁判所が裁判員制度を定着させる目的で展開した〝四位一体〟世論誘導ビジネス(魚住昭「最高裁が手を染めた『27億円の癒着』」『現代』二〇〇七年四月号など)。シアトル・マリナーズのイチロー選手が九年連続二百本安打の大記録を達成した際、全国紙とスポーツ紙の多くが受け入れた、彼をイメージキャラクターにしているNTT東日本やキリンビールの広告と連動した紙面や号外(拙稿「民意偽装 第四回・国策PR」『世界』二〇〇九年十一月号参照)。キャストたちの着ている服を、放送と同時に通販会社のHPで購入できるテレビドラマ「リアル・クローズ」(フジテレビ系)の登場(『朝日新聞』〇九年十月十二日付朝刊)。
 ジャーナリズムはどこへ行ってしまうのだろう。広告との一体化には内部からも批判や反省が聞こえてこない。むしろ好もしい戦略として積極的に進める予定なので、今回の「コルシカ」事件を正面から扱おうとしなかったということではないのか。
 笑わば笑っていただこう。筆者の危惧がオオカミ少年の戯言、うがち過ぎな見方で終われば、これに勝る喜びはない。(ジャーナリスト)







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