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評者◆齋藤礎英
再哀悼の小説――生者同士の断絶、死者と生者の繋がり(湯本香樹実「岸辺の旅」『文學界』)
No.2933 ・ 2009年09月12日




 『聊斎志異』のなかに、ある男のもとに訪れた幽霊が、酒の支度をしようとする相手にむかって、「今夜は暖かいんだし、冷酒で結構ですよ」というエピソードがある。吉田健一がこよなく愛した話で、そのエッセイで繰り返し取り上げていた。ごく自然に酒の相手ができる幽霊の姿に、成熟した文明の姿を見てとって喜んだのだと思われる。人は死んで仏になると言うが、鯖が死んでも鰹節にはならないように、仏になるのは生前も仏のようだった人間だけだ、と二宮尊徳は喝破したが、そうだとすると、幽霊になったからといってその人柄は変わらないはずで、実際、平将門のような気宇壮大なものはともかく、知らない間に写真に映り込んでいたり、恨みを晴らすために取り憑く幽霊というのは、生前のお里が知れて、「冷酒で結構ですよ」と言う幽霊に較べていかにも文明の程度が低いような気がする。
 『聊斎志異』の挿話と同じように、吉田健一の怪談に登場する幽霊は、ことごとく、死んだくらいでは品下らない、酒をゆったりと酌み交わすことができる者たちだった。湯本香樹実の「岸辺の旅」(『文學界』)に登場するのも、死んだからといって妙にねじけてしまうことのない幽霊なのだが、吉田健一の場合と違うのは、酒を飲んで気持ちよく別れてしまえるような礼儀をわきまえた他人ではなく、主人公にとっては深い関わりをもつ夫がその幽霊だということにある。三年ぶりに帰ってきた夫は、自分が自殺し、その体は海の底で蟹に喰われてしまっていることを淡々と語る。しかし、生きていたころ好きだった白玉は普通に食べるし、体もしっかりと存在しているようだ。長い道のりをこうして自分のように戻ってくる死者もいれば、旅の途中で住み着いてしまう死者もいる、と夫は語り、二人は夫の道のりをさかのぼるような旅に出る。「私」は、夫がもう死ぬことはないからといって、ずっと二人の旅を続けていけるわけではないことを薄々感じ取っている。この旅は第二の死を迎え入れるためのものなのだ。
 ハリウッドの古典的コメディには、いったん仲違いしたカップルが、ライバルとして張り合うなかで、食い違っていたもの、すべての齟齬(どちらかがより多く相手を意識していたり、真意が相手に伝わるまでの時間的なずれがある、等々)が、奇跡的に噛みあうことでハッピーエンドを迎えるような作品群がある(もちろんこの奇跡を迎え入れるには、それなりに両者の魂の修練が不可欠なのだが)。プレストン・スタージェスの『レディ・イヴ』、ハワード・ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』、RKOの制作したフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズのダンス映画などがそれにあたり、アメリカの哲学者で映画についての論考も多いスタンリー・カヴェルはこうした映画を再婚姻のコメディと名づけた。最初の結びつきを別れを経た上で再びたどり直すのがこうした映画だとすると、最愛の人物を失った哀悼を、別な人物、或は「岸辺の旅」の場合なら同じ人物の上で再びたどり直すような再哀悼の小説とでも言えるようなジャンルが存在する。ポオの「モレラ」や「リジイア」からスティーブン・キングの『ペット・セマタリー』、そして三島由紀夫の『豊饒の海』などもそのなかに入るかもしれない。この「岸辺の旅」もこれらの系列に連なるものだと言える。
 この小説の美質は、二度目の死の予感に脅かされながらも、過度に悲観的になったり、ヒステリックな反応をしないことにあって、二人は仄白い哀愁のなか旅を楽しんでいる。旅といっても、方向感覚はすぐに失われ、「ある時は海辺を、あるときは山里をとさまよううちに、椰子の木が湿っぽい風に吹かれる火山の麓にいたかと思うと、忘れられたような雪国の宿にいる。時も場所もほどけてしまって、脈絡を失くしていった。」といった具合に各土地の固有性は拭い去られ、巡り会う人々も、しばらく働かせてくれと言えば彼らを受け入れ、二人のことに特に干渉もしないような、ある意味抽象的な他人でしかない。それはあるいは、「私」が夢のなかで父親に、そして目覚めてから夫に言われたように、生者同士は死者同士がそうであるように、実は「断絶して」おり、死者と生者のみが「繋がっている」からなのかもしれない。この繋がりは、二人が共にする食べることにおいて、白玉からはじまり、そばとうどん、魚の鍋とおじや、キャラメル、餃子、ロールケーキ、さらに繰り返される白玉のなかで具体的なかけがえのないものとして立ち現れてくる。そして、二度目の哀悼は、知らないうちに夫がいなくなってしまった一度目とは異なり、「ひとつのカップからかわるがわる、舌が焼けるほど熱くて甘いコーヒーを飲」むことで正しく終わりを告げるのである。
(文芸批評)







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