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評者◆稲賀繁美
隠蔽された意図とその解明――ダリオ・ガンボーニ『潜在的イメージ』に宿る潜在的可能性・下
No.2933 ・ 2009年09月12日
(承前)敢えて曖昧なものに注目することで、そこに潜む謎を解き明かす。『潜在的イメージ』はこのアプローチによって思わぬ成果をあげる。例えばルドンは、元来の素描を上下逆さまにして、そこに本来無関係なパルシファルの横顔を重ね描きに浮かび上がらせる。ガンボーニのこの観察は、X線写真によって裏づけを得た。またゴーガンがブルターニュで描いた断崖の図の、谷間の空隙の謎めいた形態。それがほかならぬ画家自身の横顔となっていることには、今まで誰も気付かなかった。ところがファン・ゴッホが直後にアルルで描いたゴーガンの肖像には、これと瓜ふたつの顔が見つかる。これまた前代未聞の指摘だが、ここからはふたりの画家の関係を探るうえでも、あらたな手がかりが提供される。ゴーガンが自作の創作の秘密を、ひとりファン・ゴッホにだけは明かし、それを解く鍵を、ファン・ゴッホは友人の肖像として残した、とも推測できるからだ。
とはいえ、この方法論には、ある本質的な危うさが付きまとう。潜在的なイメージの基底に潜む源泉がひとたび明証されてしまうと、原初の潜在性はいやおうなく喪失する。一度潜在的なイメージのうえに、明晰な「解」としての図像が重ね合わせにされると、もはや観者には、潜在性が潜在性として曖昧なままだった状態へと戻ることは許されなくなる。暴露は遡行を許さず、イメージのうえに不可逆的な変質を刻印してしまう。一度開かれたパンドラの箱は、いまさら閉じても、もはや手遅れなのだ。ガンボーニの師、フィリップ・ジュノーの著作の題名を捩るなら、ここには『透きと濁り』のジレンマがある。隠蔽された存在を白日の下に晒すことの功罪が、ここであらためて問われねばならなくなる。 作品生成の過程は、源泉を曖昧にしてゆく。それに対して、源泉を特定する謎解きの作業は、生成の論理とは逆向きの遡及を求める。両者はときに重ねあわせになろうが、そこに働く力学的なヴェクトルは、あくまで反対方向だろう。結果を原因に還元する愚は避けねばなるまい。また源泉を特定することは、創作に使われた素材をカードとして洗い出す作業ではあるが、それはどのように手持ちのカードが繰られ、組み合わせられたかとは別次元の問題だろう。ルドンは自らの作品にあらわれる木の幹にちなんでこう語っている。樹木の根元には不可視の地下水脈がある。よい画家ならば、樹木を描いて、その水脈を感じさせねばならない、と。 作品生成の地下水脈を司る不可視の領域に探測をすすめるうえで、ガンボーニの著作『潜在的イメージ』はどこまでの道しるべとなるのだろうか。その潜在的可能性を、我々ひとりひとりが実践的に更に突き詰めてゆくことが期待されている。 (国際日本文化研究センター研究員・総合研究大学院大学教授) *ダリオ・ガンボーニ著『潜在的イメージ――モダン・アートの曖昧性と不確定性』藤原貞朗訳、三元社、2007年。なお初来日した著者の公開講演(京都にて2009年7月6日、東京にて7月12日)に取材した。 (了) |
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