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評者◆前田和男
第55回 司馬遼太郎と江田三郎と菅直人
No.2930 ・ 2009年08月15日




 時系列が逆になったが、「社会党と政権交代」――そのときはすでに江田三郎は社会党を離党していたので厳密には「社会党(を離党した江田三郎)と政権交代」というべきだろうが――について、最後にもう一つ興味深いエピソードを紹介しておく。「およそリアル政治に無縁な国民的大作家が政権交代のキーマンを産む産婆となった!?」というお話である。江田三郎は自他共に認める司馬遼太郎ファンであった。というよりまだ売り出し中でさほど注目されていなかった司馬の才能をいち早く発見し、周囲に薦めてまわるほどのフリークだった。仲井も六〇年安保が終わってひと段落していた頃、江田から「竜馬がゆく」を薦められてたちまち司馬ワールドのとりこになった。
 周辺の江田信奉者があらかた司馬ファンになった一九七七年。司馬は日本芸術院賞を受賞して押しも押されぬ国民作家となっていたが、いっぽう社会党のプリンスともてはやされた江田は政治家人生最大の窮地に立たされていた。前年にかねてからの持論である非自民社公民連合政権をつくるため、公明党・矢野絢也と民社党・佐々木良作の幹部たちと「新しい日本を考える会」を設立。これが社会主義協会を急先鋒とする党内左派から「分党行為」と指弾され、七七年の党大会でつるし上げをくらったのである。もはや社会党には踏みとどまれない、江田はついに社会党からの独立を決意。社会市民連合を立ち上げる。
 それを知った仲井たち「江田の親衛隊」は大いに悩んだ。はたして江田の決起は首尾よくいくのだろうか。晩節を汚すだけではないのか。そんな激動のとき、仲井の社青同以来の親友で江田の信頼篤かった「下町タイムズ」というタウン誌を発行していた今泉清(二〇〇一年九月交通事故で急死)から思いもかけない情報がもたらされた。江田の薫陶をうけて仲井と同じく司馬フリークだった今泉は「だめもと」で司馬に電話を入れ、「江田さんが離党して決起することについて司馬先生のご意見をききたい」と頼んだ。すると、驚いたことに会ってくれるという。勇躍大阪の司馬の自宅まで出かけて言った今泉に、司馬はこう直言した。「世間ではもはや江田さんは「老兵」です。この決起を成功させるには、自分の子どもか孫くらいの若者と組まなければダメです」。
 さっそくこの話を江田に伝えると、江田の決断は早かった。誰か組める若くて生きのいいのはいないかと。江田は前年の衆院選で落選しており、社市連を立ち上げて、この年に予定されている参議院選挙の全国区に出馬し、目玉の東京選挙区には司馬のいう「若くて生きのいい相方」を立てて闘おうという作戦だった。これなら司馬の直言にもかなうと。
 今泉は、その相方候補として、菅直人の名を挙げた。江田とは一面識もなかった。菅直人は当時三〇歳。市川房枝を担ぎ出し、本人も衆議院選挙に市川房枝とタイアップする形で無所属で出馬してあえなく落選していた。まだ海のものとも山のものともつかない存在だった。江田三郎からすれば一国の大名と足軽ぐらいの差があった。
 それでも江田は「社会党と縁もゆかりもない。しがらみのないのがいい」というと、すでに病魔に冒されていて動きがとれない江田は、二人に当たってくれと頼んだ。
 仲井と今泉はさっそく菅直人のグループの片岡勝と宮城健一らとあった。すると、彼らは「市民運動らしく公開シンポをやってオープンに決めたい」と提案してきた。そして、東大教授の篠原一の仲介で、江田の社会市民連合と菅グループの「参加民主主義をめざす市民の会」との公開討論会が実現。七七年四月二四日のことだった。病気を押して出席した江田三郎と菅直人が対面するなか、「連帯の可能性あり」となって、来る同年七月の参議院選挙の社会市民連合全国区候補には江田三郎他、東京地方区には菅直人の「老若コンビ」でいこうと江田は肚を決めた。
 ところが、それからひと悶着あった。実は、社市連内部では東京地方区候補として生活クラブの岩根邦雄理事長夫人の岩根志津子世田谷区議を立てることで話がついており、すでにポスターもつくられていたのである。仲井と今泉は「決定を無視する内部攪乱分子だ。けしからん」と、社会党の国会議員から唯一離党して江田と行動をともにし選対委員長となっていた大柴滋夫が激怒して、コテンパンに叩かれた。しかし江田三郎が直々頭を下げて生活クラブに詫びを入れて、菅直人への差し替えを頼みこんだ。江田の決意の固さを知った生活クラブなどもやむなく承知、一件落着した。「岩根さんなど生活クラブは立派だった。彼らは以後も懸命に社民連、社市連を支えてくれた」と仲井はいう。
 これで一件落着とみえたが、最後の最後になってまたまた大波乱が起きた。この時すでに江田三郎は肝臓癌に冒されて、一九七七年七月の参議院選挙の二ヶ月前の五月二二日に急〓するのである。社市連は判事だった長男の江田五月を全国区候補に差し替えた。江田五月は一三九万票を得て、社会党の田英夫につぐ第二位で当選。しかし東京地方区(定数四)に擁立した菅直人は二十万票の八位で当選にははるかに届かなかった。しかし、その後菅は、社市連の後身である社民連の候補として一度落選するが、一九八〇年についに衆議院議員に初当選。そして、周知のとおり、新党さきがけへ合流、自社さ政権の厚生大臣として薬害エイズ問題で名をあげ、その後民主党へ合流。代表や幹事長を歴任して、政権交代劇の主役の一人として大活躍している。江田三郎の果たせなかった夢を、むしろ長男の五月よりも実現しつつあるといっていいだろう。
 仲井にいわせれば、司馬遼太郎の直言がなければ今の菅直人はない、今泉清が当時は名も無い菅を江田に推挙しなければ今の菅はない。毛色の変わった一市民活動家として終わっていたかもしれない。いま近づきつつある政権交代の主役の一人は間違いなく菅直人であるとすれば、政権交代の仕掛け人は司馬遼太郎と江田三郎といえるかもしれないのである。
 ここで思い出されるのが、フランス社会党の「作風」である。一九七一年の結党以来、共産党の後塵を拝してきたフランス社会党だったが、自身が「小党」出身のミッテランを党首に戴いてから、小さな政治グループからユニークな人材を発掘して取り立ててきた。それによってミッテランの社会党は一九八一年に政権を奪取した。「新しい顔」は大きな組織にはいないというミッテランのリクルートの姿勢は、まさに菅直人を相方に選んだ江田三郎の手法そのものだった。
(文中敬称略)







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