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評者◆齋藤礎英
書簡と平岡正明の死――文学的青春がいきいきと伝えられている「辻邦生・北杜夫 パリ東京往復書簡」(『新潮』)――平岡正明の早すぎる死に文句の一つも言いたくなる
No.2930 ・ 2009年08月15日




 書簡が魅力的なのは、ごく内密な、私的なものであるのと同時に、実は修辞的なところにある。古代ギリシャやローマ、あるいは古代中国のような君主や聴衆を前にしての雄弁術が文学と切り離せない関係をもっていた時代から時を経るにつれ、文学は不特定多数の顔の見えない読者に向けたものになっていった。その結果、もっとも私的であるはずの書簡がより修辞的であるといったねじれが生じることもある。よくわかっている相手への文章というのは、相手の感情や思考の襞に自分の感情や思考を同調させるということで、自ずから対話的になり、友人を楽しませたいというサービス精神はどのようにして、という修辞的関心に向かうからである。もっとも、文学としての書簡は、たかだか数十年でどうしてこれだけの質・量兼ね備えた手紙を書けるのか、理解を絶する代物がごろごろしている西欧に較べ、日本はいかにも貧弱で、かろうじて夏目漱石の書簡が質・量を兼ね備えているというところか。そうした点で、圧倒的とは言えないまでも、「辻邦生・北杜夫 パリ東京往復書簡」(『新潮』)のようなものが掲載されるのは嬉しいことで、かつては確かにあった手紙を通じての友情のあり方、文学的青春がいきいきと伝えられている。手紙を書く習慣は壊滅的な状況にあるから、今後充実した書簡文学が生まれることは期待しにくい(メールは手紙よりずっと手軽なのだが、携帯電話からだと断片的になるばかりだし、仕事などでは便利な即時性がかえって仇になっているところがある。待つ時間や手紙の行き違いなどが書簡文学の欠かせない要素だからである)。北杜夫は辻邦生が送ってきた小説についての感想を述べて、「それから、僕は辻とちがってうまく意図をいえないのだが、少し普通の小説には、あるだらしなさ、あるいはムダが必要で、会話なんかでも、意味のない会話の挿入によって他の部分がより生きてきたり、へんなコツみたいなものがあるらしい。」と言っているが、書簡というのは小説とちょうどネガとポジのような関係にあって、意味のない無駄話ばかりのなかから最終的にある意味が立ち上がってくるようなものだと言えよう。小説でも意味のない無駄な部分に惹かれるわたしが書簡に魅力を感じるのは、そうした点にあるのだろう。
 今月もっとも衝撃的だったのは、平岡正明の死の知らせだった。芸能としての文学を感じさせる数少ない一人だった(どうか、芸能ということで、テレビを賑やかしているタレントのことを思い浮かべないで下さい。広沢虎造、岡本文弥、志ん生・文楽などへ通じる芸能である)。だが、「芸は売っても身は売らぬ」といったけちくさい了見とは無縁の人物だった。革命、ジャズ、座頭市、歌謡曲、筒井康隆、大藪春彦、山田風太郎、新内、浪曲、落語、いずれも彼の演目であったが、芸人が演目に自分の身や生を賭けることを厭わないように、常にそれらを扱う文章には彼特有の存在の重みがのっていた。論理的な文章もよく書いたが、それは思想や理論として取りだせるものではなく、生き方の流儀と分かちがたく絡み合っていた。「一晩トロツキーを読むと俺は革命家の顔になり、二晩ジャズを聴くと黒人みたいな顔になり、三本座頭市のビデオを見ると人を斬りたくなるから……」(『志ん生的、文楽的』講談社、二〇〇六年)という強力な被憑依力とでも言うべきものがあったが、志ん生が誰を演じようが志ん生であるように、誰を語ろうが平岡正明は平岡正明だった。『シュルレアリスム落語宣言』(白夜書房、二〇〇八年)や『志ん生的、文楽的』などで落語とシュルレアリスムを結びつけているのを読んで思い起こされたのは、ベンヤミンが自分のシュルレアリスム論を未完に終わった膨大な『パサージュ論』の入り口にあたるものと位置づけていたことである。ベンヤミンは自由連想的に過去と現在を行き来しながら、十九世紀のパリの全体を浮かびあがらせようとしたが、『新内的』『浪曲的』から落語へと向かった平岡正明の仕事は、幻視ともいえる強力なイメージの連鎖によって江戸から明治にいたる独特な江戸・東京の都市生活の総体を捉えようとしたものではなかったろうか(『志ん生的、文楽的』で述べられているように、浪曲は侠客もの、心中道行の美学は新内、白波もの悪の讃美は歌舞伎と講談が、そして落語は「怪力乱神を出さない」都市文学を成立させた)。新内、浪曲、落語とあげてみると、しかし、モード、商品、広告、写真などに注目したベンヤミンなどよりは、革命があり、侠気にあふれた人間が次々に登場し、しかも大衆芸能の一大集積であった、平岡正明がもっとも愛していた『水滸伝』を思わせるものだったと言った方がいいのはもちろんのことで、いまだ百八人の豪傑が揃っていないじゃないか、とその早すぎる死に文句の一つも言いたくなるのである。
(文芸批評)







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