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評者◆秋竜山
ルビの指環?、の巻
No.2929 ・ 2009年08月08日




 振仮名を書く、じゃァなくて付ける。考えてみれば自分の文章に振仮名を付けたことがない。書く、いや付ける必要がないからだ。今野真二『振仮名の歴史』(集英社新書、本体七〇〇円)では、
 〈「振仮名」がどのようなものかは知ってるよという人でも、「振仮名の始まり、起源」や「振仮名の変化」となると、「なんだろう」ということにならないだろうか。本書ではそんな疑問にできるかぎり答えながら、「振仮名の歴史」を追いかけていきたい。「できるかぎり」とは、現在までの研究でわかっている範囲で、嘘や曖昧な情報を交えずに、誠実に正面から「振仮名」と取り組む、ということでもある。〉(本書――はじめに)
 「できるかぎり」などといわないで、また「とは」など説明などしなくてもいいのになァ……などと、読者の私としては思ってしまうのだが、著者の性格として、迷わず書いてしまったのだろう。〈日記に振仮名を付けるか〉という項目がある。ハッ!!とさせる、面白い指摘だ。
 〈他人には絶対にみせないことにしている自分の手書きの日記に振仮名を付ける人がいるだろうか、ということが一つ目に考えておきたいことだ。誰にもみせないことになっている日記の場合、「書き手」はもちろん自分だが、「読み手」も自分であることになる。自分が書いているのだから、読めない箇所=文字はないはずで、他人が読む可能性がないのであれば、他人のために振仮名を付ける必要はないことになる。つまり、自分しか読まない日記には振仮名は付いていないはずだ〉(本書より)
 日記をつけるという。日記を書く、といったかしら。一年の内で日記をテーマにするマンガを必ず描く日がある。お正月マンガが終わりかけた頃である。日記も三日坊主で終わってしまったという内容である。もし、これが続けられていたとしたらマンガにならない。だからマンガがあるということは、三日しか続かなかったということだ。「さて、新しい日記帳に今年も日記をつけることとしよう」などというセリフが定番の如くふき出しの中にある。その一コマ目もウラはらに、はやくも四コマ目では三日坊主で終わってしまっている。「さて、新しい日記帳に今年も日記を書くこととしよう」というセリフ、つまり「書く」という表現はしなかったようだ。もちろん、それがいいのか悪いのか、わからないけど。以前、マンガ日記を書いた。〈アレ、この場合、つけるというより書くといってしまった。マンガの性格を考えた時、マンガというものは、自分で描いて、その描いただけでは満足しないものがある。他人に見せたい。他人あってのマンガというものか。と、なると。マンガ日記は自分だけのものではないということになる。読み手を思い浮かべながら日記を書く。読み手を強く意識しながら書くことになる。書いて机の一番下へかくすように置くものではない。
 〈振仮名を付けることは結局、「(自分以外の)読み手」が想定されているということになる。〉(本書より)
 漢字で書いて、何年かして読もうとした時、年のせいか読み方を忘れてしまっていて読めなかったら困まるからその時のために振仮名を付けておこう。なんてこともあるだろうか。まさか。







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