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評者◆杉本真維子
映画「扉をたたく人」 ~恵比寿ガーデンシネマ 
No.2927 ・ 2009年07月25日




 映画に呼ばれる、そういうことがある。映画館を通ったとき、見えない強い力にひっぱられ、今ここを立ち去ることは、私にとって何かを失うことだ、という気持ちに駆られた。どんな映画なのか、全然知らない。それに、映画館という拘束に対し、普段から恐怖心を持っているほうなので、ふらっと入ることはまずない。それなのに、その日は気がついたら受付でもうチケットを購入していた。
 動かない石、でも、今にも泣きそうな石。主人公の初老の大学教授・ウォルターは、最初、そう見えた。ピアニストだった最愛の妻を亡くし、感情が死滅したような状態で日々を過ごしている。講義も何十年も同じ内容を繰り返しているだけ。それでも、毎日、忙しいふりをして、苛立ちすら心の奥にしまいこんで、全く上達しないピアノにひとり、向かっている。
 そんな彼の姿を見ていると、自分の心まで閉じていくのがわかった。扉が一枚ずつ、音も立てずにしまり、他者を向こう側に置いたまま、たったひとりになっていく。
 英語のタイトルは、the Visitor、つまり、訪問者だが、それが邦題では「扉をたたく人」となっていて、この訳の深遠さには瞠目する。彼の心を開くのは、「訪問者」というより、まさに「たたく」人なのだ。ジャンベというアフリカンドラムを演奏する移民の青年・タレク。その恋人のゼイナブ。ウォルターと彼らは、あるきっかけから、数日間、共同生活をすることになる。
 両膝でジャンベをはさみ、素手でたたく、3ビート。クラッシックばかりを聞いていたウォルターだが、意外にもその音とリズムに関心をしめし、ある日こっそり、ジャンベを、こん、とたたいて、音を出してみる。何かが彼のなかで響いた。
 友情、淡い恋愛、ジャンベをたたく、たくさんの手、それらをとおして、ウォルターの心が本来持っていた優しさが、まずは生き生きと表出されていく。そして同時にこの作品は、9.11以後のアメリカの、移民への措置を問題化しているもので、タレクは些細な誤解から、ウォルターの目の前で逮捕され、収容施設へと移送されてしまうのだ。
 ウォルターは、大学を休職し、彼を救おうと奔走する。「練習の成果を見せてくれよ」。ジャンベをたたく自由を奪われながらも、輝く瞳でタレクは言う。ウォルターはそれに応え、収容所の一枚のガラスを隔てて、机をジャンベのようにたたく。監視官の目を盗みながら、言葉ではないもので、彼らは互いの気持ちを伝えあう。
 とくにラストは……。とにかく、きちんとしたシンプルなストーリーがあるものの、見終わったあと、巨大な鋭い断片のようなものが突き刺さって、しばらく歩くことができないほどだった。ベンチで休み、駅までの雑踏を歩きだしたとき、人々の靴音が震えるようなリズムで身体に入ってきた。私は今何を見たのだろう。身体のなかにある炎が内側から猛烈に裂けて、口から出ていったような、からっぽの状態。それは、今は誰ともしゃべることができない、しゃべりたくない、いや、しゃべることなどもう何も残っていない、という、絶望のような幸福感だった。







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