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評者◆前田和男
第53回 田辺書記長の特別秘書役となる
No.2926 ・ 2009年07月18日




 このあと、仲井は雌伏の時期に入る。
 社会党を辞めた仲井は公害問題研究会(代表・飛鳥田一雄横浜市長)を立ち上げ、全国各地の公害・環境破壊現場をレポートする会員制の雑誌「環境破壊」を創刊する。それには、平時は青年部のオルグとして、戦時(役員選挙)には江田派の行動隊長として全国各地を歩きまわり築き上げた人脈と、一九五五年の砂川闘争以来かかわってきた基地反対闘争の経験が大いに役にたった。
 仲井が再び「社会党と政権交代」の舞台にかむことになるのは、一九八三年のことだ。その間に親分の江田は社会党を追われるように離党し、社会市民連合を立ち上げて選挙に臨む直前で急逝した。それから六年がたっていた。
 同年九月、第四八回党大会で、飛鳥田委員長・多賀谷真稔書記長体制は石橋政嗣委員長・田辺誠書記長体制へと代わる。これは社公民路線に積極的な指導部への転換であった。また労働運動の現場では民間の組合が先行する形で、総評と同盟の労働戦線統一の動きがおき、それは後の連合の結成に結びついていく。これは社会党にとって政権交代・政権参加への道が近づいたことを意味していた。
 江田が社会党を離党しても、党内には江田の構造改革路線と社公民共闘を支持する勢力は残っていた。また、多くの大手組合の中には江田派の活動家たちがしっかり根を張っていた。そんな江田派の活動家たちにとっての朗報は、石橋委員長よりも田辺の書記長就任だった。
 田辺は全逓出身、江田派に属し、党内右派最大派閥「政権構想研究会」の有力メンバーだった。江田を担いで委員長選挙に臨みなんども失敗してきた江田派の人々からすると、ようやく「自分達の時代」がやってきたという思いがあった。
 その当時、全逓の大物財政部長と言われていた加藤正造の発案で、全逓出身の田辺を支えるために、特別秘書的な人材をつけようという話がでた。その意向を受けて、仲井と同郷で社青同以来の旧友の初岡昌一郎(全逓、PTTIをへて姫路独協大学教授)から人材探しを依頼された。人件費など一切は全逓もちだから、田辺のほうには異存はない。
 しかし、仲井がこれはという候補を一人、また一人と連れて行っても書記局からだめがでる。「外の連中」にちょっかいを出されたくないというケチな内輪意識が理由のようだった。業を煮やした初岡は言った。「こうなったら気の毒だが、仲井さん、あなたが当面田辺のところにいってもらうしかない」。そして、全逓や全電通や自治労などでいまや幹部になった昔の江田派の仲間が物心両面で応援するからと約束してくれた。そこまで言われたら受けるしかない。しかし仲井が「自分が引き受ける」と申し出ると、田辺周辺は猛反対。理由がふるっていた。「仲井は社会党書記局時代に中央執行委員会にどなりこむなどむちゃをやった」はまだいいとしても、「仲井は行くところ行くところ女性関係で評判が悪い」。この「すったもんだ」に当の田辺も困り果てた。
 仲井は田辺に「反対している連中を集めてくれ」と頼んだ。仲井には反対している書記局の心理はよくわかっていた。そこで彼らにこう宣言をした。「絶対党内闘争や派閥にはかかわりません。二度と昔のようなことをするつもりはありません。田辺周辺には「知恵袋」が必要なので、そういう人を田辺につける仕事に徹します」。
 これで仲井の「田辺書記長特別秘書役」が決定した。江田三郎の人脈のなかから政治学者の内田健三や朝日新聞論説委員の石川真澄(いずれも故人)や神奈川県副知事の久保孝雄などにブレーンになってもらった。田辺が予算委員会でしばしば突っ込んだ質問ができたのはこの「知恵袋」のおかげだった。

●山岸章の首長連合構想

 そのときに社会党との縁が復活しただけでない。田辺の「特別秘書官」になったことが機縁で、仲井はもうひとつ大きな仕掛けにかかわることになる。それは後に初代連合会長となる山岸章の意向を受けて政権交代への仕掛けをつくったことである。
 山岸は電電公社(現NTT)の組合・全電通(現情報労連)の叩き上げで、全電通を江田派の牙城にした老練な活動家であり、仲井とは気脈を通じた仲だった。社会党左派の全野党共闘という名の万年野党路線に対して、山岸は非自民・非共産連合政権論の旗頭であった。その背景にはこの時期(一九八〇年代前半)に戦後総評と同盟に分裂していた労働組合の歴史的統一議論が進んでいたことがあり、山岸は総評側の推進役の一人だった。
 山岸は、社公民路線という社会党主軸の政党連合を唱導するいっぽうで、政党の枠組みを超えた政権交代のための「首長連合」構想を暖めていた。
 その山岸の意を受けて仲井がつくった「首長連合」の仕掛けとは、当時神奈川県知事の長洲一二を中心にすえた、山岸と電機労連委員長の藁科満治(後に参議院議員)、全日通委員長の田淵勲二(後に参議院議員)による「定期懇談会」である。それは長洲のお膝元である横浜のホテルで二年以上つづけられた。事務方は仲井と長洲の片腕だった副知事の久保孝雄のコンビでまわした。山岸の狙いは長洲を「党首」に据えた「首長連合」と社公民連合をかけあわせた政権交代だった。
 いっぽうで、山岸は一九八七年から社会党・民社党系の国会議員を中心にした情報交換の場を仕掛けた。毎月二五日に集まりを持ったことから、それは「二五日会」と名付けられ、この事務局も仲井に委ねられた。
 このころの参加者には、川俣健二郎(社会)、渡辺朗(民社、後の沼津市長)、川端達夫(民社、後民主党幹事長)、北川正恭(自民、後に新進党議員をへて三重県知事)などの議員に加え、社民連の阿部昭吾、江田五月、菅直人、サラリーマン新党の八木大介らが参加。全電通政治部長の梶本幸治(後に全電通委員長)がコーディネータ役をつとめた。多い時で二十名ほどが集まった。ここで山岸の非自民・非共産の連合政権構想と首長連合構想が仕込まれた。
 時期的には山岸の「首長連合」と「二五日会」よりも以前になるが、仲井は、公明党書記長・矢野絢也が主宰する「二一世紀クラブ」の「裏方事務」もつとめていた。この「二一世紀クラブ」は、一九七七年江田三郎が急逝した後、江田との盟約である社公民連合政権を実現しようと、矢野が仕込んだものだった。江田の腹心ということで仲井は社会党・総評系の人脈を誘引する役を担った。
 矢野の社公民路線に対する熱意に共鳴する佐藤昇、内田健三、岩見隆夫、北沢方邦、初岡昌一郎などの学者、評論家、ジャーナリストにくわえ、山岸章などが常連メンバーで、それに「二五日会」の議員たちや総評事務局長から国会に出た富塚三夫、仙谷由人、菅直人などが参加してきた。また、自民、社会、公明の有力議員もゲストとして招くなど、影響力のあるサロンであった。この矢野の「二一世紀クラブ」は、創価学会による矢野の「手帳強奪事件」などが起こる二〇〇五年まで三十年近くもつづけられた。
(文中敬称略)







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