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評者◆前田和男
第52回 福祉総点検運動で社会党に失望
No.2925 ・ 2009年07月11日




 親分の江田三郎は、書記長を辞任させられてからも、役員選挙のたびに持論を掲げては、立候補を繰り返した。しかし、落選続きでついに委員長にはなれなかった。やってもやっても負け。肉体派で江田派の行動隊長を自認していた仲井もいささか疲れを覚えていた。
 一九六七年、勝間田委員長・山本書記長体制となったとき、福祉総点検が行われた。仲井は国民生活局の担当書記として、障害者の対話集会など各種運動団体の集まりを催しながら、全国をくまなく点検して歩いた。そのなかで、社会党は六〇年安保闘争以降、党内闘争にあけくれて、社会運動にはろくに取り組んでいない、組織労働者のことしか考えていないことがわかって愕然とする。この時期、六七年の美濃部革新都政誕生をはじめ革新自治体の躍進がつづいたが、躍進したのは共産党であり、公明党だった。その理由がわかった。社会党は、貧しく恵まれない人たちのためになにもしておらず、そこに共産党と公明党が食い込んでいたのである。仲井は久しぶりに現場に戻って、この現実を目の当たりにし、社会党には見込みがないとつくづく実感する。
 そんな仲井の「社会党への失望」を決定的にするのは、反戦青年委員会の排除問題だった。仲井自身は反戦青年委員会の理論には必ずしも共鳴はできなかったが、彼らのエネルギーを切り捨てるのは「もったいない」と評価していた。六〇年安保のとき全学連と「共闘」を模索したときと理由は同じだった。「連中はアホだが、勢いがある。そのエネルギーを切ってどうするんだ」。六〇年安保から七〇年までの社会党の運動現場にいた仲井には、「そういう連中を社会党はうまく活用してきたではないか」という強い自負と実感があった。
 ところが同じ江田派の書記局仲間からも「あいつらは社共粉砕、民同粉砕をいっている。そんなのと一緒にやれない。除名すべきだ」と聞かされて、「これはもうだめだ」と思った。
 そんななかで、一九六九年一二月の第三二回衆院選挙で社会党は惨敗(一四一議席から九〇議席へと激減)、それにともなって、書記局のリストラが打ち出される。当時機関紙局長だった仲井が首切りの責任者となる。親分の江田三郎に相談した。「自分が首切り役をやる以上、江田派の中でもっとも激しくやってきた俺かMか、どっちかが辞めなければおさまらない」。すると江田は「それはいい考えだ。じゃあ仲井、おまえが辞めろ」
 これで気が楽になった。「俺は残るがお前は辞めろ」では生首は切れない。仲井は上層部から必要とされた所定の首を切ると、最後に自らの首を切った。この中には「反戦派」もふくまれていたが、仲井としては、反戦派つぶしではなく、反戦派もふくんだ「派閥均衡的首切り」に徹したつもりだった。仲井が危惧していた本格的な反戦派パージは、仲井が自らの首をきって社会党書記局を去った後に起きる。
 むしろ仲井は、「反戦派」には、理論的な共鳴・共感はできないが、一部の人々には人間的な親近感をいだいていた。七〇年十一月の第三十三回党大会で十三人の「反戦派」が除名処分をうける。その中に、社会党・総評に「反戦青年委員会」をつくり上げたリーダー、高見圭司がいた。高見は、五八年に仲井が社会党の青年部長になったときの副部長でともに六〇年安保を青年労働者の最前線で闘った「戦友」だった。それぞれ別の理由で社会党を辞めてからも仲井と高見の付き合いはいまも親しくつづいている。
 仲井の親分である江田三郎も、高見ら社会党内反戦派を少々やんちゃだが、そのパワーは評価していた。高見がその名もずばり『反戦青年委員会』(一九六八年、三一書房)を出版したことを知ると「俺のところへ二十冊もってこい」といって買ってくれたという。組織上からは高見を除名した責任者は江田だったが、それは党内左派(とりわけ社会主義協会)の圧力によるものだった。高見は江田を恨むどころか「尊崇」の念すらいだいており、著書『NO!9条改憲・人権破壊――反戦青年委員会をつくった軍国少年』(明石書店、二〇〇七年)で、「江田さんは書記長という立場からやむを得ず私たちの首を切るが、それは『泣いて馬謖』を斬るということであった」と明かしている。そして、江田の側近のからの話として「江田さんは生前、高見君はどうしているだろうとずっと気にしていた」ことを感激と感傷をこめて記している。
 仲井と高見が社会党を辞めてから七年後、江田も社会党を追われことになる。
 高木郁朗の証言によって指摘したように、社会党が政権交代に主体的にかむことができなかった理由の一つは「社会党が社会主義革命党から社会民主主義党へ体質改善ができなかった」ことにある。しかし、より正確にいえば、体質改善に失敗した上に、社会党の良いところだった国民的エネルギーを受け止めるという開放的な性格が失われてしまったのである。
 すなわち、路線的には「極左」と「穏健」の違いはあったが、ともに運動の現場を重視する人々を切りすてて、運動嫌いな頭でっかちな秀才ばかりが残ってしまった。あわせてごった煮の人間くさい魅力も失われた。これが社会党の没落と、その後一九九〇年代に起きる政権交代に社会党が主体的にかめなかった最大の理由であったと思われる。(文中敬称略)







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