書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆前田和男
第51回 左派社会党青年部事務局長として岡山から東京へ
No.2924 ・ 2009年07月04日




 今回からは、高木郁朗とは異なる立場で社会党にかかわった二人の人物の証言を通して、「なぜ日本社会党は政権交代に主体的にかめなかったのか」について検証を深める。最初の一人は仲井富である。
 社会党は終戦直後の結党から七〇年代までは、実に多くの人材を輩出してきた。私の知る限りでは、議員たちには組合の“いっちょうあがり”の「二級人士」が多いが、書記局につどうスタッフたちはときに「頭脳」、ときに「足腰」として党をささえた「一級人士」が数多くいる。それは、社会党が共産党や公明党のように純粋培養された政党ではなく、「右」から「左」までを抱きかかえた「ごった煮」だった分、個性的で有能な人士を呼び寄せたからではないか。自民党も同様の「ごった煮政党」ではあるが、一貫して政権にあったため、人材の補給はもっぱら「霞ヶ関」に負っていた。そのぶん、スタッフの多士済々ぶりにおいては社会党が抜きん出ていた。その中でも仲井富はまことにユニークな人物の一人である。高木郁朗をインテリ活動家風とすると、仲井は社会党という枠を超えて横議横行する幕末の脱藩志士風とでもいったらいいだろうか。
 現在の名刺には、「全国徘徊老人連盟・お四国の道清掃隊会長/趣味‥キョロキョロ歩き・四国遍路・路上観察・ごみ拾い」とある。この名刺の肩書きに至るまでの彼の七十余年の人生軌跡はまことにもって興味深い。しかしそれを語るのは本稿の目的ではないので、経歴は素描ていどにとどめ、仲井がかかわった「政権交代と社会党」に焦点をあてて記す。
 最初に紹介するのは、仲井が二十年間「青春」をかけた社会党を去るにいたった経緯である。そこには社会党が受け皿となった国民運動のエネルギーの消長が見事に映し出されていると思われるからである。
 仲井富は一九三三年岡山県生まれ。一九五〇年、十七歳の仲井青年は、信奉する江田三郎が岡山から社会党参議院議員に初当選したのを機に社会党に入党。翌年社会党は左右に分裂するが左派社会党に属した江田のひきで、五一年から五五年まで地元岡山の左派社会党の書記となり、江田の薫陶をうける。五五年社会党の左右合同がなるなか、仲井は合同直前の九月、左派社会党青年部大会で、青年部長に選出された西風勲のひきで、青年部事務局長にリクルートされ、港区の左派社会党本部青年部に配属される。しばらくは江田の参議院議員会館事務所に簡易ベッドを置いて寝泊りし、風呂と食事は会館の常設施設で安くすませるという日々をおくった。
 仲井によれば、「当時社会党では理屈をこねたり文章を書いたりするやつが偉いと思われていた。したがって政策立案を担当する政策審議会がエリートだった。俺は理屈や思想をこねるのが苦手な現場主義だから、青年部に配属された。でも、おかげで最高に幸せな青春を送ることができた」という。
 ちなみに、高木郁朗は、仲井に遅れること六年後の一九六一年、仲井が紹介した清水慎三のつてで社会党書記局に入るが、高木は社会党の「頭脳」である政策審議会へ配属される。「それまでマルクス主義など勉強したことはなかった」仲井は、向坂逸郎が主宰する労働学校に通い、社会主義協会の会員にはなったものの、さっぱり「理屈」は身につかない幽霊会員のままだった。社会党との関わりの端緒から仲井と高木の違いが出ていて興味ぶかい。

●六〇年安保で全学連と共闘

 上京してからの仲井は、まさに水を得た魚だった。社会党統一後の五五年一〇月からは三宅坂の社会党本部に移り、軍事基地委員会(加藤勘十委員長)の担当書記として配属された。その年、米軍立川基地の拡張計画が突然発表され反対闘争が燃え盛る。この闘いは、測量対象となった攻防地区の名から「砂川闘争」と呼ばれ、仲井も現地へオルグに入る。砂川闘争の後、五八年には青年部長に転じるが、勤評闘争、警職法闘争が起き、いずれも闘争現場へどっぷりとつかった。勤評闘争は、文部省が都道府県教育委員会に「教師の勤務評定」を指導したことを「教育の反動化」だとして闘われたもの、つづく警職法闘争は職務質問など警察官の取り締まり権限を大幅に強化する法律に対する反対運動で、「デートもできない警職法」と世論が盛り上がり、結局岸内閣は法案化を断念する。
 これらの闘いによって社会党は若者の怒りのエネルギーを集めるが、「受け皿」となったのが仲井の青年部だった。一九五八年に仲井は青年部長となり、青年部担当中執となった西風とともに全学連の学生のエネルギーを青年労働者の運動と連携させるべく、全学連の幹部――委員長の香山健一(後に学習院大学教授、中曽根臨時教育審議会委員、一九九七年死去)をはじめ中執の森田実(後に政治評論家)や小島弘(後に中曽根平和研究所所員)らと協議を重ね、「青年学生共闘会議」をつくり、大衆運動の基盤強化を学生運動との連携に求めた。ここで出来た香山や森田ら元全学連幹部との付き合いはその後もつづき、いまも仲井の人脈の一つの尾根となっている。
 もちろんこうした動きに対して、とくに党内左派から、そして「共闘関係」にある共産党からは「トロツキスト、跳ね上がり分子と組むのか」と批判を浴びせられたが、仲井は意に介さなかった。
 何十万人ものデモ隊が連日のように国会を十重二十重に囲み、六〇年安保闘争は歴史的な盛り上りをみせたが、それが終わったところで、仲井は大いなる挫折と失望を味わう。
 党内「左派」は国民的運動の盛り上がりに酔いしれて、「勝利」と総括し、「敗北」と総括できなかった。そして「護憲三分の一」論という「守り」に入った。すなわち、とにかく憲法を守るために三分の一をとらねばならない。それには労働組合に乗っかっていれば、ヒトもカネも支えてくれるから間違いない。そこから社会党の堕落がはじまったと仲井はみる。
 片や仲井の属する江田グループは、経済成長期に入った日本の現状にあわせて社会矛盾を改革していく「構造改革路線」を打ち出す。後にそれは「江田ビジョン」として明確化される。「アメリカの高い生活水準、ソ連の徹底した社会保障、イギリスの議会制民主主義、日本の平和憲法」の四つを柱としたものだが、左派からは「現代資本主義を是認するもの」と断罪され、江田は書記長辞任を余儀なくされる。
 左右の党内対立と江田派の敗北を尻目に、自民党政権は首相を岸信介から池田隼人に素早く切り換えると高度成長路線をひた走った。結局社会党はそれに対応できないまま「護憲三分の一」論という「守り」に終始する。今から振り返ると、社会党はあのときに江田三郎をつぶしたことで自らもつぶしてしまったのだと仲井は無念さをつのらせる。
(文中敬称略)







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約