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評者◆野添憲治
日本港運業会東京華工管理事務所――東京都江東区ほか
No.2923 ・ 2009年06月27日




 四方を海に囲まれた島国の日本では、港湾労働はなくてはならない重要な作業であった。だが、この仕事は岸壁や船倉の中で、また海と岸壁に渡した歩み板の上で、雨の日も雪の日も、一人で五〇~六〇キロもの荷物を運ぶ厳しい労働である。しかも、ほとんど皆無の保安施設、無制限といってもよい労働時間、死と隣り合わせの危険な作業のうえに低賃金で、普段でも労働者の確保が厳しい職種だった。
 アジア太平洋戦争がはじまり、戦時輸送力が強化されてくると、それぞれの港の港湾荷役は直接軍の暁部隊揚搭司令官の指揮のもとにおかれた。しかし、日本人労働者の応召が多くなったり、荷役労働による疲労での欠勤などで、労働力はますます不足になってきた。そのため、中国人連行者を使うことになった。港湾荷役への中国人連行は、日本港運業会と華北労工協会との間で「契約」の形ですすめられた。中国人を配置する各港には、日本港運業会○○華工管理事務所がつくられ、そこが中国人を引き受ける窓口になり、また中国人を管理した。
 日本港運業会東京華工管理事務所が連行した中国人四七七人は、一九四四年八月二七日に若松丸に乗って塘古を出発した。船中で一〇人が死亡しているが、この人たちの死因もわかっていないし、名簿も残されていないというずさんなものだった。九月三日に下関に着き、八日に東京へ来ると深川区浜園町にあった東京華工管理事務所に渡された。塘古収容所を出発してから一三日目のことだった。
 実際に中国人を働かせたのは、東京船舶荷役株式会社と東京沿岸荷役統制組合だった。朝に東京華工管理事務所の職員が収容所から中国人を連れて行くと、会社と組合の手に渡した。都内に分散している船内荷役や沿岸荷役の現場に連れて行って働かせ、一日の作業の手に渡すという仕組みになっていた。これでは業者が中国人の管理などにはあまり口出しが出来ないように見えるが、実際には華工管理事務所には業者が役員として入っているので、大きな権限を持っていた。
 中国人が収容所にいる時や荷役の仕事をしている時は、荷役会社の棒頭のほかに、警視庁や洲崎警察署の特高主任などが監督に当った。個人的な外出はいっさい許されず、とくに一般都民との接触は厳重に禁止されていた。中国人が都民に何か話しかけようとするそぶりを見せると、棒頭や特高に激しく殴られていた。中国人は荷役の仕事ははじめてだったので、最初は同じ現場で働く日本人や朝鮮人の半分も仕事が出来なかった。そのため、荷物が動かないのは中国人がサボっているからだと体罰を受けた。ところが間もなく、「日本人ニ比シテモ長時間間断ナク持続稼動」をするようになり、作業が捗るようになったと報告している。中国人がすすんで働くようになったような書き方だが、果たしてそうなのだろうか。
 東京華工管理事務所に連行された中国人は強制連行された翌年一九四五年四月と五月にかけて、秋田県船川港に一〇〇人、山形県酒田港に一三八人、新潟県新潟港に一〇〇人の計三三八人が移動配置された。残りの一三九人は移動する九ヵ月たらずの間に死亡している。死亡率は二九・五パーセントと高い。死亡者一三九人のうち船中死亡一〇人と、事業場死亡のうちで死亡原因が不明の一〇人をのぞいた一一九人の死亡原因は次のようになっている。
 栄養失調一九人、栄養不良・胃腸カタル三人、大腸カタル二七人、胃腸カタル・感冒一人、大腸カタル・脚気五人、脚気一人、脚気・腎臓炎一人、擬似赤痢二二人、赤痢三六人、急性肺炎一人、肺炎一人、脳溢血一人、心筋炎一人。
 この統計について民間団体の調査では、「殉難者の死亡診断書によるとその大半が栄養失調、赤痢、大腸カタルで、数回に及ぶ宿泊所の移転などから考えても、衛生施設は殆どなかったものと思われる」(『しおり』)と指摘している。また、「死亡率は二九パーセントである。これが東京の真中芝浦でおこなわれたことである。東京の労働者三割が二六〇日位の間に自然に死んでゆく事態を想像することができるであろうか? これは虐殺以外の何ものでもない」(『資料・中国人強制連行』)とも記録している。
 死者たちは深川区役所からの依頼で江東区の砂町火葬場(現在はコンビニ「ミニストップ」が建っている)で火葬にしたが、区役所は再三の要求にもかかわらず引取りに来なかった。一九四五年三月一〇日の空襲で遺骨保管所も被災した。火葬場は業務を閉鎖したので、千葉県松戸市の東京都営八柱霊園に埋葬した。一九五三年には荒川区町屋火葬場(現町屋斎場)に遺骨を安置したが、のちに浅草の東本願寺に安置するというように転々とした。一九五四年に船中死亡の一〇人をのぞいた事業場死亡の一二九人の遺骨は、第四次遺骨送還の手で祖国に帰った。







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