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評者◆齋藤礎英
ジョーク――その小説との関係:カフカ『変身』の「余計者の生」(西成彦「ターミナルライフ/終末期の風景」『すばる』)
No.2921 ・ 2009年06月13日




 フロイトは膨大な数のジョークを集めて、機知について大部の本を書いた。機知には夢と同じように、様々な要素の圧縮や置き換えが認められる。しかし、『夢判断』以上に、機知についての本がある種の芸術論として読めるのは、夢占いに見られるように、夢の多くの要素は古来から共通しているものの、夢の本当のリアルな手触りは深く個人史に関わって他人にはうかがい知れないのに対し(それゆえ、他人の夢の話ほどつまらぬものはない)、ジョークの目的(少なくとも目的の一つ)が笑わせること、笑いによって他者の承認を得ることにあるからだ。実際、その内容からいっても、奇妙な論理や屁理屈によって無理矢理に他人の同意を得ようとするものに優れたジョークが多いようだ。酒飲みの自己弁護などはその好例で、たとえばロシアのジョーク「ぼくは飲むほどに酔うほどに、手がふるえてね。手がふるえればふるえるほど、酒をこぼしちまうんだ。こぼせばこぼすほど、飲む量は減るだろう。というわけで、ぼくは飲めば飲むほど、飲む量は減っていくんだよ。」(原卓也訳)などはちょっとゼノンのパラドックスを思わせるところがある。小説の目的(少なくとも目的の一つ)が、読者に虚構の世界を受け入れるよう説得することにあるなら、そこで行なわれることはジョークの場合とさして径庭はない。屁理屈であろうが何でも利用して、読者をうまいこと丸め込んでしまうことにある。
 墨谷渉の「歓び組合」(『文學界』)は、女性に強く睾丸を蹴られたいという欲望をエスカレートさせる男を描いた昨年の「潰玉」と同系列の小説である。「潰玉」の末尾には参考文献としてサドの本があげられており、正直なところわたしにはどの部分が参考にされたのかよくわからなかったのだが、同じく参考文献にサド(とマゾッホ)があげられている今作では、その援用が明瞭である。というのも、この小説は、密室で繰り広げられる拷問に近い乱交といい、欲望の強さをもった者だけがその強さに比例するかのように権力をもち、欲望だけをもとに結びつくこと、欲望や悪徳を擁護する聖職者が登場することなど、現代風にサドを書き直す試みと言えるからである。そして、サドの登場人物の哲学的長広舌がないかわりに、ペニスの長さ、周囲、体積を克明に記す墨谷作品にはお馴染みの記録への執着がある。だが、さすがに体積こそないが、サドの作品でも性器の寸法や形状の詳細な描写など記録への執着に事欠くことはない。つまり、中盤以降、サド的世界への傾斜が明らかになればなるほど、まさしくカトリック同様に徹底的で、壮大な屁理屈がない分、気の抜けたサドを読んでいる気分になるのだ。無論、サドを現代に復活させることなど時代錯誤でしかないのだから、サドとは異なった説得の仕方を試みるべきだろうが、「潰玉」の奇妙な欲望が、なにかこれまで知らなかった方面でちょっとした一歩を踏みだしさえすれば、そこに通じることがあるかもしれないというリアリティをもっていたのに対し、今回の登場人物には欲望のどうにもならなさも、欲望を力強く肯定する思想も感じられない。せいぜい金持ちの道楽といったところだが、それにしては贅沢さや趣味の洗練も、あるいはその逆の厚顔無恥な俗物性も描かれてはいない。「身体的な残虐さ」とは異なる「心理的残虐さ」「精神的残虐性」のことが幾度か口にされるのだが、わたしがこの小説を通じて見いだせなかったものこそまさに「精神的残虐性」の数字に換算されない微妙さだった。
 ある朝目覚めると、人間が害虫に変身していた、などというのはほとんどジョークでしかなく、しかも限りなく人を説得するのに困難な、手出ししないに越したことはないジョークだと言えよう。もちろん、このジョークをうまく成功させてしまったのが、フランツ・カフカの『変身』である。『すばる』で新しく連載の始まった西成彦の「ターミナルライフ/終末期の風景」は『変身』のこの成功を「余計者の生」、「死刑宣告を下されながら死刑執行の瞬間だけが先延ばしにされる」ような生のある様態を見いだしたことに求めている。こうした観点から見ると、『変身』の不条理とは人間が害虫に変身することにあるのではなく、家族がグレーゴルを見つけ次第殺しておくべき「害虫」と見なしているにもかかわらず、「生かしつづけよう」とし、だが、といって、「余分に授かった残りの生をグレーゴルが主体的に生きようとすると、そのいちいちが家族の心証を害する結果につながる」「悪循環にある」と言える。変身などよりも、いまなお世界に蔓延する「害虫としての生」に不条理を見るこうした考えには十分に説得力があり、それを支えているのは人間が害虫に変身するというとんでもない虚構を読者にのみ込ませたカフカの力なのだ。
(文芸批評)







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