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評者◆蜂飼耳
雨林
No.2920 ・ 2009年06月06日




 雨と雨のあいだの時間に林を歩く。
 杉と檜の林は年中暗い。いつ葉を落としているのだかわからない。いつも繁っている。止んでからも、林のなかでは、ぽたり、ぽたりと降ってくる。後から後から降ってくる。針の葉に溜まった水分の落下。深緑を映しながら、ふるえながら。額や鼻のあたまを叩いては流れる。まるで、そういう種類の生きもののようだ。苔や羊歯が息をする。息をする。
 昼間の暗がりに浮く、ざりざりとささくれた杉や檜の肌。放置された古い書物のように、堆積する透明な時間を纏うものたち。林のなかの窪地から、こまかく刻む声がする。雛鳥の声だ。一羽ではない。声は、頭上からではない。地面近くに巣があるようだった。あんなふうに無防備に啼きつづけていたら、きっと天敵に見つかってしまう。親鳥はどこへ行ったのだろう。湿気と朽ち葉と土のにおいに、雛鳥の声が混ざって、林の底でゆっくりと、渦を巻いていた。
 木の根元に寄り添って、白い茸が生えていた。小指ほどの大きさもない、真っ白な茸だ。これから出掛ける、というように、静止していても落ち着かない空気を帯びている。なにか来るのを待っている。ここは一時的な場所なのだ。もうすぐ遠くへ出掛ける。ここにいるまま、遠くへ行く。その方法を知っている。白い小さな茸は、ここにいること、ここからいなくなることについての確信に満ちたすがたで、地の上に立っていた。
 牛肉、豚肉、鶏肉、どれが好きかという話題だったのに、「私は茸が」と答える人がいた。いわれてみれば、茸は植物ではなく、もちろん動物でもなく、菌類だ。「とくに舞茸が」と重ねる。「舞茸の天ぷらが。それからマッシュルームも」と。途端に、茸も肉だと思えてくる。その人の発音が、茸を牛・豚・鳥とならぶ存在にしてしまう。漢字で書けば、くさかんむりに耳。茸は、人の耳にはとどかない音も、受け取っているのかもしれない。受け取るだけだ。ひと言も発しない。そうして、黙って、食べられる。
 地面にしゃがんで、林の底の白い茸に目を近づける。笠の裏の襞に、水が溜まっている。蟻や蛾の貯水場のようだ。上空を見上げると、鉄の色をした枝々の向こうに、空の青い欠片があった。ひろがりを忘れさせる、欠片だった。ふたたび茸を見ると、その白さは、暗がりにいよいよ際立ち、視界に貼りついた。白い茸の内側で、その深部で、出掛けるための身仕度がはじまる。風もない、暗い林に生まれた、眩しいすがた。なにかの象徴なのではない。この茸がこの茸であることに、すべてが懸かっている。
 離れる。もう二度と、目にすることはないのだ。茸は胞子を撒き散らして、すぐ消えてしまう。旅先で出会い別れていく人のように、別れる。林の一本道をまた歩き出す。知らない人と擦れちがう。二人、ときに三人、四人。互いに軽くあたまを下げることもある。目だけ合わせるときもある。顔をそむけるようにして擦れちがうこともある。その差がどこから生まれるものなのか、わからない。一瞬の緊張は、ぱりんと割れて、地面へ落ちる。すぐ溶けて、土に吸われる。
 勢いよく歩いてくる女の人と、擦れちがう。瞬間、胸に茸の幻影が灯る。あっちの木の下に真っ白な茸が生えていますよ、と心のなかで知らせる。食べられるかどうかも、種類も名も知らない。自分にとっては、その日、その存在を目にすることにうっすらと意味のあるもの。
 あの茸はもちろん、人に見られる必要などなかったのだ。偶然、見たのだ。見るとは、どういうことなのか。林の底で、茸は茸の時間を紡ぐ。そのことの、なんという頼もしさだろう。雛鳥は啼く。葉は朽ちる。羊歯は繁る。林は林のページをめくる。時間の交錯。なにひとつ動かすことはできない。動かしていると思ったときは、背後に、動かすものがいつもある。記憶のなかの茸はくるりと回る。
(詩人)







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