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評者◆蜂飼耳
無言の衝突
No.2918 ・ 2009年05月23日




 古書店の棚から高橋たか子『亡命者』(講談社・一九九五年)を引き抜く。風邪をひいているのか予防のためなのか、店の人はマスクをしていた。おつりの出ない、ぴったりの代金を渡す。目も合わせず、黙って受け取る。マスクの白さが視界を浸す。そばに置かれたラジオは、ざらつく声で、道路の混み具合を伝えていた。行ったこともない、遠い道路。
 政治的な「亡命」というより、キリスト教的な神の世界とこの世との距離を「亡命」の見地から捉えて紡ぎ出された小説が『亡命者』だ。俗世から離れ個人が個人として修道生活を送るプスチニア(砂漠の意)という仕組みが登場する。小説内の小説として、一組の夫婦が夫婦の関係をしだいに薄めていき、それぞれ神に仕える身になっていくすがたが描かれる。ページからページへ、信仰というものの感触が潮騒の低さで鳴り響く。
 「地獄を見きってしまうと、明るくなる。地獄を見てしまうと明るくなるのは、神のなさる曲芸だ。そんなセリフが、たえまなく私の意識を打っていた。そして、それに同意していた。同意なのに、打つと感じるのは、つまり痛みを伴うのは、地獄を見てしまう苦痛を通り越した上で明るくなるのであるから。苦痛のうちに過ぎ越しが行われるのだ、と私はわかりはじめていた」。地獄を見きってしまう果てに生じる明るさというのは、天に属するものなのだろうか。登場人物の思考を通して、そんなことを考える。登場人物はときに望遠鏡のようなものだ。見知らぬものや未知の側面を、拡大して見せる。倍率はわからない。ただ、見せる。
 『亡命者』を閉じて、おもてへ出る。開いている店や閉まっている店の前を過ぎていく。色ごとに並べられた花屋の花、二匹の鯉が飼われている壺、赤ポストなどを過ぎて、駅近くの駐輪場に差し掛かる。びっしりと、整列する自転車。すべてのサドルに、不在が腰掛けて、静かだ。ここまで乗ってきた人たちはいまごろ、それぞれの場所で為すことを為しているのだ、とにわかに気づく。だれもいない駐輪場は、見えないけれど生きている人たちの気配で満たされていた。青黒く。無言の衝突が、そこにあった。
 あるとき、カトリック教徒だという人に、訊いたことがある。修道生活に入ろうと思ったことはないのですか、と。すると、相手は首を横に振った。「世捨て人みたいになることは、なにかちがうと思って」と。「この世で、いろいろな人たちとともに生きて自分を活かすことが、そもそもカトリックの意味なので」というのだった。それ以上のことは、わからない。私自身は信仰をもっていないので。駐輪場の静けさの奥底から、その対話が甦り、水紋のかたちにひろがった。ひろがって、なにも残さずに消えた。
 公園へ入ると、やわらかい草のあいだに、ぽつぽつと赤い粒が見える。蛇苺だ。有毒だと子どものころには聞いていた。実際には、食べても害はないらしい。いままで一度も口に入れたことはなかった蛇苺を、食べてみる。水っぽいにおい。甘くも、苦くもなかった。おそるおそる眺めてきた真っ赤な実。こんな、なんでもない味だったのかと、がっかりする。
 『亡命者』に、次の一行がある。「人の中に、マグマのようなものが充ち充ちていますね、私はそんなふうに人というものを長年見てきました」。生きている個人の底に渦巻く、エネルギーのようなもの。根源的な熱量のようなもの。地獄を見きってしまう、というのは、マグマの衝突を見届け、存在の芯まで灼かれてしまうことなのだろう。プスチニア、砂漠。つまり乾いた場所なのだが、乾いた場所こそが、そこに向き合う人を潤す。個人の祈りの生活という人目にはふれないはずのものが、物語に織りこまれ言葉として出現する。言葉として出現しながら、言葉を消していく。自転車が整列する駐輪場は、本棚のようだ。それぞれの物語を運んでいく。







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