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評者◆前田和男
小沢と社会党の水面下の政策協議
No.2916 ・ 2009年05月02日
時計の針が進みすぎたので、殿様連合構想が頓挫した一九九三年六月まで話を戻す。
高木が社会党書記局に入って中央政治にかむようになって三二年めの一九九三年六月、戦後政治にとって歴史的な事件が起きる。片山内閣以来の非自民諸政党連合による「細川政権」の誕生である。 高木にとっては皮肉なことだが、当人が仕掛けたわけではなく、棚ぼたで念願の連合政権が実現する。社会党も八会派の一つとして参加するのだが、実は、選挙の前に、自民党を割って新生党を立ち上げた小沢一郎から社会党に政策協議の呼びかけがあり、社会党の窓口である田辺前委員長に乞われて、インフォーマルなかたちで、高木もその作業にかかわったのである。 小沢には、新生党が社会党と組めば政権がとれるかもしれないという読みがあり、だったら一番厄介な相手である社会党と「政策合意」をしておく必要があるとの計算があったからだと思われる。 社会党サイドからは高木、新生党サイドからは小沢の腹心で秘書役の平野貞夫と小沢のブレーンで野村総研に籍を置いていた元大物官僚が参加、この元官僚がまとめ役をつとめ、小沢も時々顔をみせたという。連合からも山岸会長の指示で幹部が参加した。場所は料亭かホテル。六月一八日に宮沢内閣が解散してから、総選挙の結果がでる七月一八日までの一ヶ月の間に四、五回行われた。論議のなかでは政治改革についての意見交換もむろんおこなわれたが、焦点は、バブル崩壊後の日本の経済政策の舵をどうとるかだった。 なお、本連載第四回で紹介したが、九二年夏の「小沢・有力四労組トップ会談」が機縁となり連合会長山岸と小沢の会談が実現。これが、やがて山岸の仲介によって新生党を間に入れた社公民協力へ発展、社会民主連合を加えた「非自民五党共闘」態勢がつくられる。これは「選挙協力」という表の動きであり、マスコミを大いに騒がせたが、いっぽう水面下でかなり突っ込んだ政策協議がなされていたわけで、こちらは筆者の知る限りどこにもかかれていない「秘話」である。 合意文章はつくられなかったが、後で小沢の腹心の平野貞夫によって叩き台としてまとめられた。高木によれば、経済政策面、とりわけ社会システムをどうするかについてのすりあわせが進み、議論の過程で新自由主義者の小沢が「社会民主主義」に理解を示すようになったという感触をもった。 しかし、細川政権が成立してからはなぜか政策協議はもたれなくなる。同じように表の動きもぱったりと止まった。山岸章のところへ小沢から電話がかからなくなったという話を山岸本人から聞かされたという。 連立ができたあとも話し合いの場所があれば、後の「自社さ」政権という形で自民党の復活を許すこともなく、政権交代が十年以上も遅れることもなかったかもしれない。 理由はおそらく選挙結果だった。小沢の予想を大きく裏切って社会党が独り負けしてプレゼンスが落ちてしまった。それは、連立政権を待望する山岸が、連立に批判的な社会党左派候補に対して選挙協力をしないなどの「選別」をしたことが仇となったからで、なんとも皮肉なことだった。その結果、小沢新生党にとって社会党は「一番厄介な存在」ではなくなってしまい、そうなれば、政策協定の延長議論をつづける必要はないと判断したのかもしれなかった。 (文中敬称略) |
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