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評者◆野添憲治
井華鉱業別子鉱業所――愛媛県新居浜市
No.2916 ・ 2009年05月02日




 「東平」(愛媛県新居郡角野町立山川・現新居浜市)は四国山脈の北側に面した海抜約八〇〇メートルの谷間で、井華鉱業(住友鉱業)別子鉱業所の採鉱本部が置かれたところ。最盛期には約三八〇〇人の鉱山関係者が住んでいたが、一九六八年に休止したのちは無人の地となっている。別子鉱山の歴史は、「元禄三年(一六九〇)人跡未踏の銅山峰(海抜一二九一メートル)の南側で露頭が発見され、翌四年(一六九一)から住友によって採掘が開始」され、「斜めに深く長く帯状に貫入した鉱床は、世界にも稀にみる大鉱床であり、開坑以来、江戸・明治・大正・昭和の四時代二八二年」(「別子銅山記念館案内」)にわたって掘り続けられた。しかし、アジア太平洋戦争期には強制連行された朝鮮人・中国人が苛酷な重労働を強いられ、多くの犠牲者を出した所でもある。
 華北労工協会をとおして第一回の中国人連行者二八七人が塘沽から出航したのが一九四四年一〇月二四日。船中で二人、車中で三人が死亡し、一七七人が東平に着いたのが一一月二日。歩けないのでかつがれたり、人の肩にすがって歩く人もいたほか、脚気で下肢に浮腫のある人もいた。中国人隊長が「人数不足で病気で寝ている三〇人を連れて来た」と「事業場報告書」に書かれている。
 第二回は一〇〇人が一九四五年一月上旬に青島から出航し、一四日に東平に着いた。高齢者が多いうえに喘息やマラリヤを持っている人が多く、疥癬に大部分がかかっていた。
 第三回は三九六人が五月一八日に青島から出航。船中で一一人が死亡し、三八五人が東平に着いたのが六月一七日。老人と子どもが多く、病人が四〇人ほどいた。
 三回にわたって六七八人が連行されたが、途中で一六人が死亡し、東平には六六二人が着いた。
 別子鉱業所のある東平は一年の大部分が濃霧に包まれ、晴天は一カ月に七日、雨天は八日ぐらいなので湿度が高かった。冬は積雪が三〇センチ、零下一〇度を越す日も多く、便用水も凍った。中国人は東平の第三通洞坑口近くに建てた宿舎に入れられたが、脱走防止に重点が置かれ、日本人や朝鮮人から離れた所にあった。木造の掘立造りの平屋建て二棟で、各棟は中央に土間の通路があり、両側は板張りで上下二段になっていた。しかも、二棟ののべ建坪を東平に到着した六六二人で割ると、一坪当り五人である。これはあまりにも狭く、人が重なるように寝起きしたことだろう。浴場は三坪というから、どれだけ入浴できたことだろうか。
 宿舎を囲むように一二尺の板塀が建てられ、その上には三五〇ボルトの電流を通した鉄線がつけられていた。電流は致死量であるが、これも脱走防止のためだった。新居浜警察署長はマル秘指示の「華人労務者警備計画」を出しているが、逃亡防止にかなり力を入れ、「地理を知らすな、金を持たすな、日本語を教えるな」と指示していた。また、華労専任巡査派出所や見張所があり、憲兵、警察、労務係、現場監督が常駐して警備した。
 だが、長時間の厳しい作業や食糧不足に我慢できなくなった中国人は、次々と脱走を企てた。そのなかでも大きいのは、日本の敗戦が近い一九四五年八月一二日の夜半に、三三人が脱走した。目撃した人は、「捕えられて収容所に連行される現場を見たが、タンカで運ばれる人、友人の肩にすがってかろうじて歩行しているひとなどさまざまだが、全員とも着衣はボロボロで、棍棒でなぐられたのか全身はただれて血だらけになっていた。空腹のためか満足に歩行しているひとはひとりもいなかった。おなじ人間として正視にたえられなかった」(「国際新聞」一九五四年八二〇日)と語っている。このうち二人は見つからず、いまでも行方不明となっている。
 東平に連行された中国人の多くが病気と疲労で弱っていたのに、「中国人の病気は病気に取扱わなかったし、医師の回診もおこなわれなかった」(『中国人殉難者名簿別冊』)という。しかも、ほとんどの人が坑内に入り、鑿岩や運搬などで働いた。食べ物も少ないうえに、湿気が高いので早く腐敗するため、多くの人が栄養不足となった。冬は寒いのに衣服が満足に配られないうえに宿舎も不備なので、感冒や気管支炎、肺炎などにかかる人が多く、この病気で死者も沢山でた。
 別子鉱業所に強制連行された六七八人に対して死亡は二〇八人で、死亡率は三〇パーセント強と非常に高い。死亡原因は死亡診断書を書いたという私立別子住友病院東平分院の医師を信用すれば、作業事故死一人、縊死自殺一人をのぞき、二〇六人が疾病死亡である。事業場側証言では死者は「その都度鄭重に火葬し供養した後保管」したというが、「こうしてバタバタと倒れた死亡者は作業場から遠い山腹にある火葬場で火葬にされ、古ぼけた二個のミカン箱に入れられたまま日本敗戦後、米軍の入山までだれひとり葬う者もなく放置されていた」(「国際新聞」一九五四年五月二二日)のが真相であった。また、米軍が入山後も変化はなく、一九五四年に華僑総会などの調査で東平葬祭場の遺骨が確認され、中国に送還されている。
 いま、別子鉱業所跡は観光地となり、強制連行の跡は皆無となっている。







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