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評者◆蜂飼耳
豹柄の老女
No.2916 ・ 2009年05月02日




 幾種類もの花を取り混ぜて不協和音を響かせる仏花の束から、ひとつ選ぼうとする老女の、下半身へ視線が引きつけられた。暗い色合いの、豹柄のパンツをはいていた。ぱさぱさの髪に、化粧気のない顔。眉も引かない。無造作なそのようすに、豹柄はどこかそぐわなかった。
 老女は、仏花の束を吟味する。ひとつ、引き抜く。花のオレンジ色が視界をすっと流れる。その瞬間、あ、と思った。あの人は、自分が身につけているものの模様が豹柄だと、気づいていないのではないか。きっと、そうだ。いびつに変形した水玉か、なにか地紋のようなものだと思っているのではないだろうか。老女は片手で仏花を掴んで、店のレジへと向かう。後ろすがたを盗み見る。見送る。やはり下半身だけ、豹だった。
 手縫いのようにも見える小さなリュックサックを背負った老女。買ったばかりの花束を抱えて、自動ドアに差し掛かる。反応して、ドアは速やかに開く。雑踏へ紛れて、少しずつ、見えなくなる。豹の模様の両脚とともに。似合っていない、というのではない。おかしい、というのともちがう。ただ、なんとなく、明確な選択ではないような空気が、その人を包んでいた。その空気を嗅いだのだった。
 服飾関係の仕事に携わる知人に、この話をした。すると、「ありえない」と首を横に振る。「そんな、ありえないですよ、知らないで豹柄を着ているなんて」と。「どうしてそう考えるんですか」と笑われる。真相はその人に確かめなければわからない。わかったところで、その先になにがあるわけでもない。ある瞬間、目の前の時空が割れて流れ出すイメージなのだ。イメージにはいつも、いくつかの根拠がある。それはときには主観的なものに過ぎないかもしれないが、いきいきと像を結んで、心に痕跡を残す。
 こんなものを着てきたんだ、とどこかへ出掛ける道中で気づくことがある。たいてい、電車のなかでのことだ。今日はこんなものを着てきたのか、と思う。その認識は、夜明けのように訪れる。東の空から少しずつ明けていくように。いいとか駄目だとかいうことではなく、ただ、静かな確認が舞い降りてくる。自分で身につけるのだから、そんな表現はおかしいのだが、ふと、遠い出来事のように眺めるときがある。無頓着ということとも少し異なる。知人に向かって説明したかったのはそういうことだったのだ、と後から気がついた。だれもが、身につけているものについて端から端まで意識を行きとどかせているとは限らない。口頭で説明するのは難しい事柄でもあった。
 それから半月ほどたったある日、ふたたび、駅で老女のすがたを目にした。同じ人だとわかったのは、そのときもまた豹柄のパンツをはいてリュックサックを背負っていたからだ。券売機の上にある路線図を見上げる老女は、少しずつ爪先立ちになり伸び上がり、確認が済むと、すとんと元の背丈にもどった。あの人は電車に乗るのだろう、と思ったら、売店の前を過ぎ、改札とは反対の方向へ歩き出した。路線図でなにか確かめただけなのだった。その背中に、眠るように貼りついたリュックサックが、遠ざかる。二足歩行の豹が、よろよろと去っていく。
 あれはやっぱり、豹柄ではないのかもしれない。変形した水玉なのかもしれない。あるいは、地味な色の地紋なのかもしれない。にわかに疑念が湧き上がり、去っていくすがたを両目で追った。どこでどんなふうに暮らしている人だろう。海中で偶然すれちがう別の種類の魚のように、まるで関わりのない他人。けれど、こんなふうに、そのすがたをふと見て、ふたたび目にしたときにはぼんやりと懐かしさすら感じて、見送っている。相手は、まさかそんなこととは気づかないだろう。老女は、まもなく銀行の角を曲がって、見えなくなった。瞬間、視界が静まり返る。それから、どっと雑音を取りもどす。







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