書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆蜂飼 耳
魯迅の新訳
No.2914 ・ 2009年04月18日




 藤井省三の新訳による魯迅『故郷/阿Q正伝』(光文社古典新訳文庫)が出た。帯の言葉には「真の魯迅像を忠実に再現」とあり、「訳者あとがき」には「これまでの魯迅の日本語訳は、必ずしも魯迅の文体や思考を十分に伝えるものではありませんでした」とある。それなら、自分がいままで読んできたものは、なんだったのだろう。不十分とされるものによって心を動かされたのだとしたら、動かされたという事実を、どこへ持って行けばいいのだろう。わからないまま、この文庫本に、少しずつ目を通した。
 訳者は指摘する。魯迅の文体に見られる特徴の一つは、「屈折した長文による迷路のような思考の表現」だ、と。それを従来の竹内好の訳では、「多数の短文に置き換え、迷い悩む魯迅の思いを明快な思考に変換している」と。そうなのだろうか。短文で構成し直すと、明快な思考の表現になるのだろうか。短文でたたみかけるかたちでも「迷い悩む魯迅の思い」は表出されるのではないだろうかと、首を傾げながら読んだ。句読点による分節を減らした新訳には、確かに、歯切れの悪さが表れている。この歯切れの悪さを訳者は狙ったのだ。狙ったというより、そもそも原文がそうだから、忠実に置き換えようとした、ということだ。
 歯切れの悪さにもかかわらず、新訳によるそれぞれの作品は読みやすかった。そしてここから先は、一読者としての読後感に過ぎず、ひと言で根拠を述べられないのだけれど、新訳からは従来の訳よりも軽やかな印象を受ける。歯切れは悪いのに、どういうわけか、軽やかなのだ。だから結果としては、「迷い悩む魯迅の思い」が従来の訳よりもいっそう盛りこまれているのかどうかは判断しにくい。長文か短文かのちがいは、歯切れがいいか悪いかの差ではあっても、迷い悩む思いを含めるか否かの差ではないように思う。というのは、人間は短文の連続のなかでも、やはり迷い悩むからだ。
 はじめて読んだ魯迅の作品は、十代半ばのころ、中学の国語教科書に載っていた「故郷」だった。語り手とその一族は、屋敷を手放さなければならなくなる。その片づけのため、二十年ぶりに故郷へもどった語り手は、子どものときいっしょに遊んだ少し年上の閏土と再会。記憶が誤っていなければ、中学生のときには、こう習った。子どものときは「閏ちゃん」「迅ちゃん」と気安く呼び合った仲だったのに、大人になって再会した閏土の口から出たのは「旦那様」という呼び方。つまり、子どものときには見えないも同然だった身分差がはっきりと示され、語り手は愕然とした、と。
 この点について、新訳は原文に忠実なかたちをとる。それによると、身分差の認識は、子どものときの呼び掛けにすでに表れているということだ。だから、新訳では「迅ちゃん」ではなく「迅坊っちゃん」とされている。衝撃の度合いは小さくなるとも思えるが、その分、読む者の目は別の部分に引きつけられることになるだろう。つまり、没落した家族の風景全体を眺めることに向かって、いっそう開かれることになるのだろう。原文の世界に近いところへ、もどされたのだ。
 昔、上海の魯迅公園にある記念館へ行ったとき、ほの暗い展示室でなにを思ったか、忘れてしまった。めぐりながらなにを考えたのか。原稿や書や机があった。建物の外へ出れば、池の縁には幾本もの緑の柳。水面で、静かに数を増やしていた。その静けさを、風やあひるや蛙がときおり、びりりと、破り棄てていた。「故郷」の語り手が、二十年ぶりの故郷に対して抱く距離感。それは、ある翻訳が別の翻訳に対して持つことになる距離感にも、通じるものかもしれない。知っていたはずの顔のなかに、別の顔を見出す。新しさは古さのなかに、すでに胚胎されている。それでいて、なかなか気づかれない。改めて魯迅に心奪われる、そんな本の登場だ。







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約