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評者◆齋藤礎英
小説で最も難しいのは・・・―田中慎弥と木下古栗を読む
No.2913 ・ 2009年04月11日




 小説でもっとも難しいのは笑わせることと怖がらせること、つまりファルスと怪談だと言ったのは三島由紀夫だったろうか(それとも佐藤春夫だったかしら)。それに較べて泣かせるのは簡単だ、と続くのだったと思うが、この見解はかねがねわたしにとって原理的には承認できるが(つまり、小説の華はなんといってもファルスと怪談だということ)、経験的にいうと疑問が残るものであった。というのも、小説を読んで笑ったこと、怖くなったことはあっても、泣いたことなどついぞないからだ。泣かせることが、笑わせること、怖がらせることより容易に思われるのは、笑わせることや怖がらせることには泣かせることより、より知的な操作が必要とされるからだろう。笑わせたり怖がらせたりするには確かな対象に焦点を合わせることが必要だが(つまり、我々はあるなにかを笑い、あるなにかを怖がる)、泣かせるには漠然とした雰囲気づくりだけで十分である。一方は対象を捉える描写力や論理が必須だが(論理を超えた、あるいは外れたものを我々は笑い怖がるが、それは論理を最大限に駆使してその限界を指し示すことによって初めて有効に働く)、他方は扇情的な言葉をぺたぺたと貼りつければこと足りる。
 同じことは小説で不安を感じさせることについても言えるだろうか。不安は恐怖とは対照的に対象がはっきりしない。「将来の不安」という言葉によくあらわされているように、不安はなにについての、というよりはある漠然とした状態、雰囲気である。それゆえ、泣かせる場合と同じく、それこそ不安を煽る言葉を並べていけばいい。特に現在のような「百年に一度の大不況」ともなればなおさらである。それなりのシチュエーション、言葉を連ねていけば読者が勝手に不安を感じてくれるだろう。しかしこれもまた、原理的にいえば賛成なのだが(つまり、不安を感じさせるなどということは、泣かせることと同じく小説においては少々下品であること)、経験的に顧みるとあやふやになっていくのを感じる。というのも、わたしは小説を読んで不安を感じたことなどついぞないからだ。ところで、こんな話をしたのも、今月、不安を感じる感覚点が微かに刺激されるような小説が幾つかあったからである。
 田中慎弥の「週末の葬儀」(『新潮』)では、離婚してニュータウンで一人住む五十五歳の男が、長年働いたデパートを退職し、無為の日々を送る。外ではパトカーのサイレンが鳴り渡り、よく聞き取れないがスピーカーで警官がなにか言っている。ヘリコプターも飛んでいるようだ。テレビでは両親に刃物で襲いかかった若者がバイクで逃走中だというニュースが流れている。再就職の目途も立たない。ニュータウンは海が近く、あちこちに砂がたまる。庭には向かいの家の大きな犬が入り込む。向かいの住人は、放した犬が問題でも起こしてくれれば「いまの生活もちょっとは、稲妻みたいにぴかぴかっとした刺激を受けるんじゃないかって」思ったと語る。海から風で運ばれる砂のように、男の生活をなにかが侵食していく。別れた妻の家に電話をかけ、息子に「ニュータウンには、近所づき合いも、事件も事故もない。パトカーも救急車もヘリコプターもただ通り過ぎるだけだ。この町には平和な家庭なんか、本当は一つもない。ただ平和だけがあるんだよ。」とどう対処しようもない言葉が伝えられるだけだ。そのあと、男は決定的な行為に移ろうとするのだが、それもかなわない。『異邦人』のムルソーは「太陽が眩しかったから」殺人を犯すが、そうした行動からも男は隔てられている。そんな無力感がこの小説にはよくあらわされている。 
 木下古栗の「淫震度8」(『群像』)もまた、中年から初老にさしかかろうというサラリーマンの男の話である。彼はある日街のゴミが気になって仕方がなくなり、毎晩出歩いては偏執狂的にゴミを拾い集める。男はやがて会社を辞め、妻は家を出てしまう。こうした行動を、この男の個人的な精神の病というよりは、実存的な飢えのようなものとしてある程度あらわすことができているように思える。特に夜の街に繰りだす場面などは、意外なことに古井由吉を思わせるものがあった(木下古栗と古井由吉、なんという取り合わせ)。この男のエピソードと交互にあらわれる、毎朝駅前で自分の写真に「捜しています」と書かれたビラを配る女の話も読者の興味を惹かせるものがある。ところが、七、八割を過ぎたところだろうか、この小説は突然ふざけ始めるのである。もともとふざけたがるたちの作家だということは重々承知しているが、わたしの理解を絶する転調で、しかも馬鹿馬鹿しさに突き抜けることもない。そこで、せめてファルスを書くのは難しいくらいのことは肝に銘じてもらいたいと思うのだった。
(文芸批評)







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