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評者◆杉本真維子
身体、その乾きと渇き ~「喜びの海」(1)
No.2911 ・ 2009年03月28日




 関さなえというダンサーの、パフォーマンスは以前、茅場町のギャラリーマキで見たことがあった。その身体がまとう透明感といったら、まるで少女と老婆を同居させたようでありながらそのどちらにも全く特定できない、いやもっと言えば、性別なんてものすら超越した、不思議なものであった。でもこういう言い方ではなく、もっと何かあるはずだ、もっと的確な言い方が……と思っていたところ、あるDMの裏書の言葉に目がとまる。
 「過剰な情念の一切を身にまとうことを拒絶」する。これは、生野毅の言葉だ。そうそうと、この言葉にもう一度誘われるように、浅草のアサヒ・アートスクエア スーパードライホールへと出かけていく。関さなえと上野雄次のコラボレーションライヴ「喜びの海」。前衛華道家、上野雄次の「はないけ所作」との組み合わせは、それぞれを単独で見たことがある私にとっては待望のものだった。
 会場が暗くなり、音楽が流れはじめてから二人の姿が見えるまで、20分くらいあっただろうか。もっと短かったかもしれない。でも、まだかまだかと待っているうちに、いったい何を待っているのかわからなくなるような、軽い混乱が生まれてくるほどの長さに感じられた。なぜ私はこの場所にいて、この椅子に座っているのか、はたまた、なぜここに生まれ、ここに存在しているのか、というふうに、根源的な問いへと近づいてくる。
 ぱっと灯りがつくと、正方形のマットの上に、何かが仰向けになっている。それは最初、身体であるという認識すらできないほど、生まれて初めてみる〝物質〟として現われた。
その身体をただ見つめる。胸の近くまで紐のようなもので吊り下げられた灯の下、身体はぴくりともせず、いっこうに動かない。そのうちに、じりじりと灯に焼かれ、火でモノの縁が捲れあがるように、手足の先に微かな痙攣をおびはじめる。それも、目を凝らさなければわからないほどの繊細な動きで、蛍光灯の下の、瀕死の虫が頭をよぎった。
 そのように乾いている。いや、渇いているのだろうか。しばらくすると、胎児が生(せい)の明かりに掴まれ、産道をくぐろうとするかのような、ゆるやかな回転へと変わっていく。ゆらゆらと羊水での遊泳を思わせる動きと顔の表情。そこには同時に、生まれることへの拒絶も映しこまれ、あらゆる快楽と痛みが等分化されたままそこにあった。やがて激しい横転へと移り、それも止み、静寂がやってきて、再び目は閉じられたが、さらにかっと大きく見開かれ、運動はやまない。
 生と死、眠りと覚醒、その臨界を激しく往来する、という言葉だけでは決して説明のつかない、極めて強靭で無垢で、孤独な身体がそこにあった。虫のように焼かれ、焼かれつつ目覚める身体は、棺桶に入れられ火葬される死体という〝死後〟のようでもあったが、それが当たり前のように、ふっと生のほうへと起き上がっていく。あらゆることが交換可能であるような、関さなえのこのパフォーマンスからは、いくつもの言葉や文脈が湧いてくるが、驚いたのは、そのどれをとっても、今まさに私たちが生きている現実――人が生きている過程の姿と何ひとつ変わらないことであった。
 ライヴが終わるまで、関さなえは一度も立たなかったのだが、立たなかった、ということに私は全然気づかなかった(フライヤーに「立てなくなったダンサー」という言葉があって、あとから読んで気づいた)。つまり「立つ/立たない」という概念の外に、その身体は置かれていた。そして、この「ダンス」のあいだじゅう、闇のなかで、単管(建築において足場として使われる資材)によって活けられた〝老木〟が、上野雄次の手によって激しく打たれ、解体されていく。







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