書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆蜂飼耳
いなくなる仏像
No.2910 ・ 2009年03月21日




 男が京都のある寺から仏像を盗み出した。盗まれたのは十一面観音座像、盗んだのは、五十代の男。美術品や骨董品として目をつけたのだろうと、ニュースに耳を傾ける。すると、そうではないのだった。男は、病気をきっかけに信心を持つようになり、いつしか仏像というものを好むようになったらしい。そうして、ある日、たまたま目にしたその十一面観音座像に心を奪われ、家で拝みたくなった、というのだった。男は、京都府警に、仏像には信仰のために家へ来てもらったのであって、預かっているだけ、と説明したらしい。
 もちろん、窃盗以外のなにものでもないが、その言い訳の仕方は、鈍い刺で心の壁に引っ掛かり、なかなか消えない露のようにしばらく留まった。男は信心を持っているといいながら、たとえば、罰が当たるという発想は抱かなかったのだろうか。家で拝むというけれど、持ち帰ったりすれば他の人々は拝めなくなるのに、そのあたりについては考えなかったのだろうか。すべては言い訳に過ぎないと片づけてしまうこともできるけれど。奇妙で利己的で、それと同時に、現代の説話とでも呼びたくなるような、出来事のなかでの仏像の位置。捕まってから、男は自分のしたことを窃盗だったと認め反省しているという。家へ来てもらったのだと思うこと、思いこむことが、窃盗の自覚に変化する境目、それはどんなふうだろう。この男、盗むばかりでなく、神社に寄付などもしているという。そういう人もいる、この世だ。
 ときおり通る歩道の脇に、地蔵が安置されている。おそらく江戸時代のもので、顔面はすっかり磨滅している。目も鼻も口もない。屋根がないためか、傷みは激しい。けれど、気になっているのはそのことではない。もう一年近く、地蔵は石の台座から降りているのだ。降りて、台座の脇に立っている。はじめ見たとき、だれかのいたずらだろうと、気になりながらも立ち止まらず通り過ぎた。近隣の人が気づいて元にもどすだろうと、思った。ところが、幾日経っても、幾月が過ぎても、地蔵は降りたままなのだ。それでも、ときには花が供えられている。白や黄の菊などが。
 降りたままなのは、なにか理由があってのことだろうか、いたずらなどではなくて。そうでなければ、近所の人がとっくに直しているのではなかろうか。在るべき場所から外れて佇む地蔵は、顔面はなくても、いきいきして見える。次に通り掛かるときには、いなくなっているのではないだろうか。だれか持ち去っているのではないか。そうであってもおかしくない、顔のない地蔵の、不安定な位置。けれど、また通り掛かれば、相変わらず立っている。すり減る石の衣。行くところなど他にないのだというように。
 地蔵の道を歩きながら、仏像を盗み出した男の事件を思い起こす。盗まれるとき、仏像は、黙って盗まれてしまうものなのだな、と思う。やめなさいとも、やめてくれ、とも叫ばずに。「家に来てもらった」と説明されたり、「やっぱり窃盗だった」といわれたりしながら、出来事の真ん中で、黙っている。出来事の前後で仏像そのものは変わらない。変わるのは、男の認識の仕方と言葉だ。生きているということは、迷うということなのだな、といまさらのように考える。
 地蔵はいまも台座から降りたままだ。だれがなんのためにそうしたのだか、わからない。不安定な位置と角度も、しだいに見慣れたものとなっていく。そのままでもいいと思えてくる。遠い昔の人の手で彫られたその像は、どんな顔をしていたのだろう。見たことのない顔、これからも見ることはない顔を、わずかに残った衣の線から想像する。そばでは草が緑の葉を繁らせる。他のことには構っていられないのだ。おのれのことで手いっぱいの草。草たち。風を受ければ、ごんごんと、頭を揺する。







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約