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評者◆巽孝之×茅野裕城子
対談 巽孝之×茅野裕城子 『想い出のブックカフェ』をめぐって 本を選ぶ、作品を掬い取る
想い出のブックカフェ――巽孝之書評集成
巽孝之
No.2908 ・ 2009年03月07日




 巽孝之氏が、自身初となる書評集『想い出のブックカフェ――巽孝之書評集成』を研究社より刊行した。本書をめぐり、巽氏の友人でもある小説家の茅野裕城子氏と対談していただいた。なお、本対談収録にあたり、研究社・編集部の金子靖氏に全面的にご協力いただいた。記して感謝申し上げます。(対談日・2月7日、東京・飯田橋にて)


 「カタログ文化」の復権

巽 茅野さんとの初対面はかれこれ一昔以上も前にさかのぼりますが、まったくの同い年なので、当時から百年の知己みたいな感じがしていました。
茅野 そうですね、同じようなものを共有してきているという感じがしますね。
巽 最近の映画だと『ALWAYS三丁目の夕日』『20世紀少年』あたりがわたしたちが共有してきた時代を映しているといえば、わかりやすいでしょうか。
茅野 そうですよね。ここ何日か今度のご著書『想い出のブックカフェ』を読んでいたのですが、巽さんはわたしがほとんど忘れてしまっていたものを思い出させてくれます。たとえば、本書では『オードリー・ヘプバーンズ・ネック』のアラン・ブラウン氏や、『ニッポンマンガ論』のフレデリック・L・ショット氏などを紹介されていますね。この人たちは、一九八〇年代の「カタログ文化」時代に活躍した人たちですし、わたしの友人でもありました。八〇年代には、『ポパイ』や『オリーブ』を中心に、「カタログ文化」というものが形成されたように思います。
巽 七〇年代、八〇年代のカタログ文化といいますと、当時はややミーハー的と思われていたかもしれませんが、つい最近でも『タイム』誌二〇〇八年十二月二十二日号が「二〇〇八年度の部門無差別トップ10」という特集を組んで「リスト特集号」を謳っていましたし、リストマニアの支えるカタログ文化の良さが、いま再び注目されているように思います。今回の拙著にも、じつはそうした要素を隠し味的に入れたつもりです。
 ここ十年ほどの書評の流れを見ますと、ネオ・リベラリズムの影響か実用的なものや売れ筋ばかりを優先したり、中身もちゃんと読まずに著者の人柄を中心に語ったりするものが散見されます。しかし、良心的なカタログ主義があるとしたら、小泉信三先生も『読書論』(岩波新書)で書かれているように、「書評をする以上、まずはしっかり中身を過不足なく紹介するということこそまずすべきであって、評価はその先」なんですよ。小泉先生はこれを演劇に喩えながら「たとえば、その芝居に対して、あらすじも何もまったく知識がない状態で、あの役者は好きだ、嫌いだ、と書かれてしまっても、まったくわからないのと同じことだ」といった意味のことを書いている。とてもうまい比喩だと思います。そういう意味で、書物の中身と書評テキストの連動は不可欠でしょう。
 だから『想い出のブックカフェ』では、これまで本について、書評について、批評そのものについて書いてきた想いをも、カタログ的にまとめてみました。

 ニューヨークというフィルター

茅野 読書歴は全然違うはずなのに、今回のご著書を拝読して八〇年代に知り合った懐かしい人たちに再会したような、とてもうれしい気持ちです(笑)。
巽 本書にはその著作の書評を再録しませんでしたが、ニューヨークを拠点に活躍していたノンフィクション作家で、芥川賞作家・米谷ふみ子さんのご子息カール・タロー・グリーンフェルドも、われわれの共通の友人でした。
茅野 八〇年代アメリカというのが、わたしたちの共通の柱としてまずあると思います。七〇年代末にわたしはお芝居をやろうとしました。それは結局うまくいかなかったのですが、とにかくそれ以降に、何度も何度もニューヨークを訪れました。そしてニューヨークの街を歩いていると、そこらへんにいる人たちが実は作家だったりすることがわかりました。たとえば、ジェイ・マキナニーとか、スーザン・マイノットとか、アトランティック・マンスリー・プレスの人たちとか、そういった若い作家や編集者たちが実際に歩いていたりしたわけです。すると、本に書かれた内容からではなく、実際に本人を見てから、本の中身を理解していく。それができたわけです。新しいアメリカ文学が生まれつつあった空気を同時代に自分の体で吸収できたのです。わたしはそういう実体験を通じて、最初はあまり興味もなかったアメリカ文学に入っていけたような気がします。
巽 わたしがコーネル大学大学院に留学していたのも八〇年代半ばでしたから、ほぼ同じ時期になりますね。茅野さんには、二〇〇六年四月に、日本アメリカ文学会東京支部で、特別講演(「禅道場からはじまった――アメリカからアジアへ」)をしていただき、そこでアメリカ文学とのかかわりをお話しいただいたのは刺激的でした。作家デビュー後の茅野さんはどちらかというと中国系の印象が強いんですが、あの時は確かアメリカの禅寺についても興味深いことをお話し下さって。
茅野 ええ、そうでした。そうです、アメリカにも禅寺がありまして、そこで日本人の老師が指導をしています。でも、お経はなぜかすべて英語でした(笑)。ヨガなどもそうですが、あの時代はアメリカというフィルターを一度通して世界に伝わったように思います。そういう流れが、七〇年代、八〇年代にはもちろんのこと、六〇年代からずっとあったのではないでしょうか。一度アメリカのニューヨークのフィルターを通して、そこから新しい物や形として世界に向けて吐き出されたような感じがします。今のロハス的世界は、その焼き直しに思えます。
巽 そうですね、アジア的なものも含め、今も多くのものがニューヨークに強力に吸引されて、そのフィルターを通して力強い文化が生まれ続けています。

 八〇年代文学から、始まる

巽 わたしと茅野さんのキーワードである「八〇年代」を振り返りますと、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』とウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』とがまったく同じ一九八四年に刊行され、日本でも翻訳されて話題になっています。マキナニーはわれわれと同い年、ギブスンは遅れてきた団塊世代なんですが、一括りにされることが多い。
茅野 わたしはSFには詳しくないのですが、あの時代には新しいアメリカ文学がジャンルを超えて混沌とひしめき合っていたわけですね。
巽 はい。マキナニー、ギブスンのほか、ラリイ・マキャフリイいわくのアヴァン・ポップ系としてリン・ティルマンとかジェイン・ローダーとかマーク・レイナーとか、さらにブレット・イーストン・エリスやマーク・ジェイコブスンといった多彩な才能たち、八〇年代から九〇年代初頭にかけて、めきめき頭角を現すようになりました。
茅野 そうですね、先ほど話題にしましたアラン・ブラウンも、八〇年代に日本に来て、『ブルータス』等にも寄稿していました。
巽 アラン・ブラウンが一九九五年に発表した『オードリー・ヘプバーンズ・ネック』は、八〇年代という時代を描いた傑作小説です。現在は、村上春樹の影響を受けている作家は日本のみならずアメリカを中心に世界中にひしめいているわけですが、『オードリー・ヘプバーンズ・ネック』はかなり早い段階で村上作品に影響を受けたように見受けられるところも面白い。日本人男性の考え方、嗜好そのものがエキゾティシズムの対象になりうることを、小説の中でみごとに主題化していますから。
茅野 それがとても面白いですね。
巽 『オードリー・ヘプバーンズ・ネック』の世界は、日本でもなければ、アメリカでもない、とても不思議な空間を構築している。そのあたりのことを強く意識したのは、さっき言及したカール・タロー・グリーンフェルドがまったく同じ一九九五年に、「暴走族」とも「速度の部族」とも訳せるタイトルで発表した日本の若者文化論(Speed Tribes:Days and Nights with Japan’s Next Generation)を読んでいたからです。
茅野 カールは、最近は『スポーツ・イラストレーテッド』の専属記者だと思いますが、当時は、まだ大学出たばっかりくらいで東京に来て『東京ジャーナル』で映画評などもやっていました。
巽 この本はついに翻訳が出ませんでしたが、最終章を「オタク」と題し、日本のオタクをいち早く英語圏に紹介したことでも記憶すべきでしょう。実はこの本の刊行当時の書評をわたしは一九九五年のうちに、研究社の『時事英語研究』(現在、休刊)に発表しているわけですが、スペースの関係で『想い出のブックカフェ』には収録できませんでした。時代的に意味があると思える書評にもかかわらず、本書に収録できなかったものは、実は少なくありません。
茅野 そうですか、ここに入っていないものもあるというのはすごいですね。『想い出のブックカフェ』にはほんとうにたくさんの本が紹介されていますね。これまでお話してきたあの八〇年代を振り返る上で、まだ読んでなくて、これは絶対に落としてはいけない、という本が何冊も見つかりました(笑)。だからわたしは今そうした本を入手すべく、チェックしています。巽さんの今度の本は、そういう意味でも、ほんとうにありがたいんです。

 モノに対する究極的な意識の高さが求められた世代

茅野 そして『想い出のブックカフェ』では、拙著『ミッドナイト・クライシス』を二度にわたって取り上げていただき、感謝しております。この本については、同世代の同じ体験をした人でないとわかっていただけない部分があります。若い人にはちょっと何世代か前の人の話と思われてしまうかもしれませんので、その意味で巽さんに書いていただけて、とてもうれしいです。
巽 そう、文芸雑誌初出のときに共同通信の文芸時評で、単行本にまとまったあとに朝日の書評でご紹介しました。いささかショッキングな人間模様が描かれているわけですが、読み進むと「うんうん、こういう人間関係って、ありだよね」と同世代感覚に訴えるところがあったんですね。茅野さんの小説はファッショナブルなようでいて二十代、三十代の人では書けない経験則をふまえつつ一飛躍しているわけですから、その点が興味深い。何より「ミッドナイト・クライシス」は「ミッドライフ・クライシス」の問題なのですから。
茅野 そうですね。この小説では、主人公の親友ルリが亡くなって、その遺品をその亡夫とともにネット・オークションに出していくという話なのですが、ここでもわたしたちの「カタログ文化」が生きていて、「残してあるものは大事なものだったはずだし、価値もあるものだから、最後には売ってしまうのがいちばんいいのではないか?」というわれわれの世代の考え方も反映させたかったのです。そのあたりも巽さんに指摘していただいて、とてもうれしいです。
巽 そうですね。さすがに五十を超えてしまうと、モノも知識もありとあらゆるものが溜まりすぎてしまう。なので、これから少しずつ整理していく、処分できるものは処分する、売れるものは売ってしまう、という意識が必要かもしれません。
 二十代、三十代の頃は、とにかく自己開発のためには何でも買って集めて人生の糧にしなければならないと思いこむものです。しかし、四十代後半から五十代になると、少しずつ整理して、文化を再循環させることを考えるようになる。とくにわれわれの世代は高度成長期をくぐり抜けた日本そのもののパラダイム・シフトというか、価値観の転換をもろに受け入れていったわけですから、他人事ではない。
茅野 「カタログ雑誌」というのは、それぞれの製品や商品の良さをしっかり説明しています。そのどの点がよいのか、わかりやすく解説してくれている。だからそれを読んで、その製品や商品を持つのはいいことなんだ、とわたしたちは認識したわけです。ですので、その「カタログ雑誌」を熟読し、また自分たちで記事を書いたりもして、育ってきたわたしたちは、良質のモノを見極める見方が養われたように思います。その意味で、ある種、モノに対する究極的な意識の高さが求められた世代の人間かもしれません(笑)。モノに対する見方は捨てられないという意識が、常にベースにあります。
巽 わたしも批評的研究を続ける上で、良質の本を「読む」以上に刺激的な参考文献を「選ぶ」ことが常に求められましたし、今も求められています。当初の「カタログ文化」から遠くはなれた時代に生まれた今の学生たちは、「カタログ文化のカタログ」が氾濫する渦中で、あまりに多くのモノを与えられている。わたしのゼミの学生なども、最初からやりたい研究テーマが決まっているのはほんの一握りで、大半はゼミに入ったあとに試行錯誤を重ねているのが現状です。だからこそ大学や大学院の教育現場では、学生ひとりひとりの適性に合わせ最適な書物を「選ぶ」とともに「推薦する」ことが絶対に必要なんですね。けっきょく「読む」というのは「選ぶ」ということです。それは茅野さんが言うように、時代的要請として「モノに対する見方」を厳しくしつけられたことの効用かもしれません。

 作家同士のイマジネーションの共鳴を掬い取るのが批評家の仕事

茅野 あと、日本アメリカ文学会東京支部で二〇〇五年に講演をしたロバート・クーヴァーも興味深かったですね。クーヴァーが語っていたハイパーフィクションは、ほんとうにすごい。ケイヴ・ライティングというネット上の三次元の空間のなかで、創作を展開する仕組み……でしたよね。(詳細は以下を参照‥http://www.brown.edu/Administration/George_Street_Journal/vol27/27GSJ01g.html)
巽 クーヴァーはもともとブラウン大学で創作講座を担当していて、ユーリディシーら優れた作家を輩出するばかりか、盟友であるレイモンド・フェダマンやロナルド・スーキニック、ラリイ・マキャフリイとともに、ポスト構造主義理論とインターネット文化を連動させる前衛文学会議を何度となく主催し、電子文学会(ELO)も促進してきた凄腕のオーガナイザーでもあります。そうそう、『想い出のブックカフェ』の第V部で紹介したティプトリー賞作家シェリー・ジャクソンなども、同大学でのクーヴァーの弟子ですね(三一四~三一五ページ参照)。
茅野 巽さんの書評の魅力の一つは、あらゆるジャンルが見事に交錯しているということだと思います。あらゆるジャンルをカバーするというのは、一見簡単なようですが、実は誰にでもできることではない。逆に、多くのひとが自分の分野というのを固めてしまいがちだと思います。
巽 それをご指摘いただくと、うれしい限りです。書評をしていると、予想もしなかった奇遇や反応に出くわすんですね。「ジャンルの交錯」ということでは、先日も面白い体験をしました。昨年二〇〇八年の暮れには三ヶ月間、文芸雑誌『群像』の合評を担当したのですが、その最初の回で、津島佑子さんの最新短篇「電気馬」はフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に挑戦する姿勢がある、と評価したところ…….
茅野 あ、思い出しました。たまたま、そのことで、わたしが津島さんとお話ししていたら、津島さんはSFあまり興味がなくて、ディックのその作品をほんとうにご存知なかった。そうお伝えしたら、巽さんが感動して。
巽 あの小説もその映画版として著名な『ブレードランナー』も知らずにSF的な「電気馬」を書けてしまうのはもちろん津島さんの類いまれな想像力のなせる業ですが、しかしまったく無縁に見える作家同士の「無意識の意識交流」を敢えて掬い取るのも、批評家の仕事なんですよ。
茅野 巽さんがすごいのは、そのあたりの「作家自身も気付かない先輩作家とのつながり、意識の共有」というのをさりげなく指摘されるところですね。
巽 作家が実際にその作品を知らない、読んでないにもかかわらず、ある別の作家の系譜に連なっていたり、あるいはその作家に堂々と挑戦するように見受けられる作品を書いたりする、ということは確かにあります。いくらポール・オースターが影響を否定しても、カフカや安部公房によってあらかじめ耕された文学史的コンテクストを切り離して考えるわけにはいかないのと同じことです。それは文学史的視座といってもいいし、世界文学的視座といってもいい。こうした「批評家の仕事」をめぐるメッセージについても、今回の『想い出のブックカフェ』の随所に盛り込みました。
茅野 ほんとうにそうですね。そしてわたしのように読書量が極端に少ない者は、本書を「カタログ雑誌的」にめくって、「なるほど、これを読んだけど、巽さんがそれについて別の本も指摘しているので、今度はこっちも読んでみよう」という気になります。そのように読書の幅をどんどん広げてくれるので、とてもありがたいです。

 新聞の書評委員会の内幕も……

茅野 膨大な数の本が出ている中で、思いがけずある一冊の本を読むにいたった、というドラマも面白いですね。そして書評書を決める上での書評委員会での攻防戦なども、とても興味深いし。
巽 そのあたりのことも、朝日新聞や読売新聞各紙の書評委員会の許可を得て、今回第Ⅱ部の各イントロに書かせてもらいました。こういった「書評対象選定の実情」は、今までほとんど公にされることがなかったと思います。新聞書評で書評対象本が決まるまでには、凄絶な「奪い合い」がある。さらには、ある書評委員が「こんな本は取り上げる価値がない」と一刀両断に斬り捨てる本も、自分で読んでみて価値があると信ずるときは、断固取り上げるべく論陣を張らなければなりません。
茅野 文学上の高級性だけを基準にすることなく、大衆的な作品もたくさん取り上げることも巽さんの書評の大きな特徴ですね。
巽 ただし、いくら評判の作品であれ、あくまで自分自身の批評眼でわかる範囲のものを書評しようと心がけています。自分のセンスで理解できて、自分のアンテナを心地よく刺激してくれたものだけを、選び取っています。
 ふりかえってみると、『朝日新聞』の書評委員を担当していた三年間(二〇〇五~二〇〇七年)は、地球温暖化論争が激しく交わされた時期に合致していました。二〇〇五年八月にハリケーン「カトリーナ」がニューオーリンズを襲い、温暖化に警鐘を鳴らすアル・ゴア元副大統領が二〇〇六年に『不都合な真実』を公開し、二〇〇七年にノーベル平和賞を受賞していく過程だったんですね。ちょうどその時期にわたしはマイクル・クライトンが部分的に地球温暖化言説批判を盛り込んだサスペンス小説『恐怖の存在』を扱いましたが、このときには書評が一人歩きして、エンタテインメント評価の範疇を超え環境温暖化論争そのものに巻き込まれてしまうような事態も経験したものです。
 また二〇〇八年明けは大統領選レースが過熱してはいたものの、ヒラリー・クリントンになるか、バラク・オバマになるか、まだまったく先が見えなかったころですが、このときわたしは半ば書評家生命を賭けるような気持ちで、オバマの著書二冊『マイ・ドリーム』と『合衆国再生』を取り上げる決断を下しました。新聞書評はタイミングの問題もありますが、時には書評家生命を賭けて臨まなければならないこともあります。
茅野 巽さんの大変な読書量があるからこそ、論争を跳ね返したり、時代を先読みすることができるのだと思います。

 ブックカフェの「ほっこり」感

茅野 ニューヨークには、たとえばバーンズ&ノーブルズやボーダーズにはじまり、ほんとうに小さな書店でも、本の売り場の中にカフェが設置されていて、お客はそこでお茶を飲みながら売り場にある本を自由に読むことができる、買わない本も同じように読むことができる、というありがたいシステムが相当前からありましたね。WTCのボーダーズなど、わたしもずいぶん利用しました。でも、そこで読み終えるだけではなく、手元に置いておきたい本、ほしい本はやはり買ってきてしまう。ブックカフェでの本の楽しみ方というのはどういうことなのでしょうか?
巽 まさしくそのことを本書『想い出のブックカフェ』で読者のみなさんと一緒に、考えてみたいと思ったのです。「ブックカフェ」というのは正式な英語ではおそらく「リタラリー・カフェ」(literary cafe)というのだと思いますが、にもかかわらず「ブックカフェ」という名の文化は日本に確実に根付こうとしています。新進気鋭のアーティストYOUCHANに装丁をお願いしたのも、ブックカフェに集まる「ほっこり」「なごみ」系の人たちの、どこかほんわかしたイメージを伝えたい、と思ったからです。YOUCHANは見事なイラストと題字で、その「ほっこり」系のイメージを創り出してくれました。
茅野 例えば、パリの確かスミスとかいうサロン・ド・テの本屋とか、アスペンの小さな本屋の喫茶部とか、何年経っても、ふと思い出す「なごみ」ブックカフェっていうのがありますね。
巽 近場では、高円寺の「茶房高円寺書林」とか、下北沢「カフェ・オーディネール」とか、あるいはブックバーといったらいいのか阿佐ヶ谷の「よるのひるね」など、本と楽しく付き合えるお店が中央線沿線などにはいくつかありますね。本書の制作のために編集部と打ち合わせを重ねたのも自宅マンションの一階にある「カフェ・リール」でした。読書好きにとっては、「本を買う」「本を読む」以前に「本を選ぶ」こと自体がいちばんわくわくする冒険でしょう。その冒険にぴったりの舞台がおそらくはブックカフェなんだと思います。「本を選ぶ」ことから始まって、最終的には「何か新しいものを創る」ことへ立ち至る空間としても、ブックカフェ文化の未来には大いに期待しています。(了)







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