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評者◆田辺秋守
運動イメージ論の格好の分析対象――クリント・イーストウッド監督『ミスティック・リバー』
ミスティック・リバー
クリント・イーストウッド監督
No.2908 ・ 2009年03月07日




 筆者は、本紙2887号でドゥルーズの『シネマ1*運動イメージ』について書いた。ドゥルーズはこの書で「行動イメージ」の全般的な危機をひとつの結論としていたが、依然ハリウッドでは行動イメージに依拠した作品の中からかろうじて数少ない傑作が作り出されている。プラグマティズムを生み出した国にふさわしく、ハリウッド映画は結局のところ「行為」が意味を生み出すという信念と手を切ることができない。
 ところで、昨年刊行されたクリント・イーストウッドのロング・インタビュー集(マイケル・ヘンリー・ウィルソン編『孤高の騎士クリント・イーストウッド』フィルムアート社)を読んでいて、つくづくイーストウッドは、演技者としても監督としても行動イメージを抜群に組織化できるハリウッドの代表的存在になってしまったのを感じた(『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の二部作では、同じ硫黄島決戦を米日双方から視点設定することによって、しかも「小形式」と「大形式」によって描き分けるという力業まで示した)。イーストウッドの作品はどれをとっても、運動イメージ論の格好の分析対象になるだろうが、ここでは世評高い『ミスティック・リバー』(03)を取り上げてみよう。
 映画の舞台となる「環境」は、ボストンのミスティック・リバー付近の貧しい労働者地区である。住民にはアイルランド系が多い。主人公のデイブ(ティム・ロビンス)、ジミー(ショーン・ペン)、ショーン(ケビン・ベーコン)は25年前幼友達だったが、三人が路上で他愛のないいたずらをしているところを、デイブだけが警察官に扮した変質者二人に拉致され、性的暴行を受けるという痛ましい事件が起き、その後交友は途絶えている。行動イメージは一見するところハリウッドの王道である「大形式」(シチュエーション‐行動‐変化したシチュエーション)によって作られている。25年前の事件の記憶とジミーの娘の殺害事件は、重大な行為が生起するためにシチュエーションに埋め込まれた二大要因である。それに、偶然同じ夜に起こったデイブの傷害事件が重なる。だが、細部の展開には「小形式」(最小の差異による対立可能なシチュエーションの創出)も組み込まれている。事件当夜に怪我したデイブの拳の傷は、二つの事件(ジミーの娘の殺害か少年の救出か)のどちらかを証拠立てる痕跡として、典型的な指標記号になっている。しかも、映画のクライマックスに至るまでミステリーを維持するために、「欠如」(娘の殺害シーンは不在である)と「多義性」(妻ですらデイブの傷の意味を疑ってしまう)という指標記号の二重性を担わされている。
 ジミーがデイブを殺害するクライマックスは、ショーンが真犯人を追い詰めるシーンと並行交替モンタージュになっている。クライマックスのショット(ジミーがデイブに放つ銃の閃光)に近づくにつれて、次第にその間隔が短くなり、収束モンタージュとなる。しかしこのクライマックスは、決して「崇高な瞬間」ではない。真犯人がデイブではないということがすぐ直前に明らかにされているからである。ジミーとデイブとの間に、またショーンと犯人の少年たちとの間に典型的な闘争=二元性が成立している。だが、事の真相を知った後のジミーとショーンとの間では巧みにこの闘争=二元性が回避されてしまう。パレードの最中ショーンは手で拳銃を象り、ジミーに向けて撃つ素振りをするが、ジミーは軽く受け流す。それが結末のシチュエーションの曖昧さと倫理的な解決のなさという印象を与えている。悪に身を置く者と治安に身を置く者との薄暗い結託ともとれる。観客は、ここでは正義は回復されていないという不均衡の感覚を強くするだろう。
 その他の運動イメージの特徴については、まず知覚イメージとしては、要所要所でボストンのダウンタウンやミスティック・リバーを上空から俯瞰するイメージが現れる。これは、この街を一種神話的な次元へと引き上げる視線であるように感じられる。殺人の連鎖を運命的なものとして眺める視点とも言える。
 感情イメージの相関性が集中的に示されるのは、ラストのシークエンスだ。裏切ってしまう女のただならぬ戦慄きのアップと決して裏切らない女の勝ち誇った笑みのアップ。デイブの妻(マーシャ・ゲイ・ハーデン)は、ハリウッド的裏切りと密告を体現している。ジミーとデイブの妻ほど「カインの世界」に近づいている者はいない(ジミーの背中に彫られた大きな十字架のタトゥーは、「カインの徴」と見るべきだ)。それに対してジミーの妻(ローラ・リニー)のふるまいには、どこか西部劇に出てきそうな女の単純な割り切りがある。誤った殺人を告白する夫を彼女は「我が家の王」だと言って、あくまでも夫を擁護する。
 感情イメージと欲動イメージがない交ぜになるきわめて特徴的なイメージは、デイブが過去の虐待体験とつい最近の少年の事件がごっちゃになり、「吸血鬼」が自身の中に入ってきたという病的妄想を妻に語る顔のアップである。被害者であるはずのその顔は、事実「吸血鬼」に変じてしまったかのような怪異さを漂わせている。一方、純然たる欲動イメージは、加虐の側の変質者二人の物腰と表情に表れているだろう。特に車に乗っていたひげ面の男の振り向いた笑顔は尋常ではない。突き出した指に十字架を象った指輪をしているのも男の倒錯した欲動を際立たせる。
 クリント・イーストウッドは、数多い監督作品の中で一貫してアメリカ論・アメリカ人論を展開してきた。映画のラストでアメリカ大陸発見記念日のパレードと星条旗が登場するのは偶然ではない。いや応なく殺人を再生産してしまう環境と、殺すことによってしか罪を清めようとしないヒーローのふるまい。果敢に選択はするが、選択が誤った結果をもたらしてもにわかには反省しない姿勢。この社会的地理を「アメリカ」と呼ぶ以外になんと呼ぶことができるだろうか。
 デイブの殺害はミスティック・リバー沿いのバーの裏陰でおこなわれ、川の神話的な機能(罪を洗い流す場)と関係づけられる。ジミーはこの川辺でのかつての殺人(仲間の裏切りに対する復讐)を思い起こしながら、新たな殺害に過剰なほどの儀式性を与えている。デイブを殺害する時のジミーの発言は通常の言語行為ではない。「おれたちはこの川に罪を沈め、それを洗い流す」(We bury our sins here.We wash them clean.)は、一種の遂行的な「宣言」である。この宣言によって、結局ジミーは犯罪を共にした同志たちを束ね、ある種の集団のリーダーになってゆくだろう。アメリカ史のなかで何度となく、また現在も繰り返されている遂行的な光景だ。ここまで現代アメリカの宿命的な傷とモラルの曖昧さを見据えている作品は少ない。







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